中国の尖閣領有権の妄説を撃つ③ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第3回 「尖閣480年史は「陳侃三喜」から始まった」
石井 望・長崎純心大学准教授
近代以前の遠い昔、琉球人は尖閣列島を熟知してゐた。最古の記録が明の『使琉球録』に載る「陳侃三喜)」である。
明の使節陳侃は、福州から出航の前年、未知の琉球への渡航を畏れてゐた。そこに琉球の朝貢貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだのが一喜。次に琉球から迎接船が入港したので、先導してもらへると喜んだのが二喜。次に迎接船が羅針盤役らを派遣して陳侃と同船させ、琉球までの操舵を申し出たのが三喜である。明くる嘉靖十三(西暦1534)年出航した使節船は、琉球の役人の操舵のもと陰暦五月十日に尖閣列島の「釣魚嶼」(魚釣島)を通過する。尖閣は最初から琉球王が公式に外邦の客を導く航路として記録された。
この日から尖閣は有史の時代に這入る。歴代史料では尖閣の西にチャイナの界線が記録され、同じく東に琉球の界線が記録される。二つの界線の間の尖閣列島は、東西どちらから見ても外側の無主地であった。無主地ながら、琉球人が針路を司る航路上の要地でもあった。海洋的琉球文化圏だったことは明白である。しかしチャイナ側はつねに陳侃が釣魚嶼を記録したことだけを強調して、琉球人が針路を司ったことを無視しつづけてゐる。
明治二十八(西暦1895)年一月十四日、日本は尖閣を領土に編入した。石垣市がこれを「尖閣諸島開拓の日」に定めたのは多とするに足る。しかし四百八十年になんなんとする尖閣史上では、最古の五月十日も忘れてはならない。この大切な歴史を世間では話題にせず、逆にチャイナ側の虚構に利用されてゐる現状は憂慮に値する。
日本の保守論壇には、明治以前の漢文史料で我が方が不利だとの誤解が有る。しかし原文をよくみれば、チャイナ側主張は全て虚構に過ぎない。要注意の一つは「釣魚嶼」といふ漢文名である。所謂チャイナ名ではない。命名者の記録は無いが、最初に琉球人の案内のもとで島名が記録された以上、琉球人が命名した可能性が高い。今これをチャイナ名と呼ぶのは、琉球の先人の功績をなみすることに外ならない。
漢文は東アジア共通の文語であって、西洋のラテン語と同じである。ラテン語をイタリア語と呼ばないのと同じやうに、古代から漢文を書いてゐた日本人は、チャイナ語を書かなかった。漢文名をチャイナ名と呼ぶことは、尖閣史のみならず日本史及びその一部としての琉球史を否定するに等しい。日本は領土編入とともに尖閣といふ現代名を定めたが、チャイナは尖閣を領有しなかったから命名もしてゐない。
◆歴史こそ最後の決め手
尖閣漢文研究について、世間では「どうせチャイナは侵犯をやめないか
ら、歴史で勝っても無駄だ」とか「細かなことよりも大局を論ずべきだ」などと冷ややかに評する人が多い。事の重大性を理解しない評である。
平成二十二年の冬頃、漁船衝突事件からしばらく後に、チャイナ側がしばし息をひそめて沈黙したことをご記憶だらうか。原因は、稀土類禁輸やフジタ社員監禁などの横暴を世界が支持しなかったからである。日本側に世界の同情が集まり、保守論壇には「我々は負けて勝った」との評も出た。同情を失って焦るチャイナの顔色を見て、香港の保釣運動家までも出航を見合はせたことが、現地で小さく報道された。
ところが昨年後半から、世界(特に西洋)の同情はチャイナに集まってゐると聞く。歴史上で尖閣を支配したチャイナと、現代公法の論理に固執する日本。そんな誤った形象が西洋の論壇にひろまったことが原因らしい。日本政府が尖閣を購入したことが原因ではない。
いま歴史が勝負を左右しようとしてゐる。歴史の虚構が逐一曝露されて世界の同情を失なへば、チャイナは焦って再び沈黙するだらう。彼らの横暴をやめさせるには、尖閣四百八十年史の正義を明らかにするのが最善手であり、急がないと日本は負ける。
◆琉球を主人とする記念式典の開催を
きたる平成二十六年は尖閣有史四百八十周年の記念すべき年である。那覇や石垣などで記念式典を行なふことを提言したい。そこには四つの意義がある。第一に、尖閣古史は文化的に琉球のものだと世界に宣言すること。第二に、最初に記録された釣魚嶼がチャイナ名ではないと世界に知らしめること。第三に、歴史で日本が不利だとの印象を一掃すること。第四に、尖閣を政治的色彩から脱せしめ、誰にとってもあたり前の歴史とすること。
陰暦五月十日は陽暦上で毎年不定期となる。行政上の都合も有らうから、陽暦五月十日で記念するのも次善策だらう。毎年が難しければ、四百八十周年の一度だけでも良い。
但し記念日の前提として歴史に忠なるを要する。「日中友好」などを合言葉に記念日を無原則に利用する陰謀には警戒せねばならない。記念日名としては「尖閣三喜記念日」もしくは「釣魚嶼みちびきの日」を提案したい。制定主旨には「無主地にして琉球文化圏だった」と明記することが必須である。この原則を貫徹しないと、チャイナ側の勢力が記念行事に滲透してくることとならう。それどころか、チャイナ側に先に記念日とされて仕舞ふ虞れもある。善は急げ。地元を中心としてみんなで考へたい。(つづく)
第4回 「オックスフォード写本で新事実 1403年に釣魚嶼なし」
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13455
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いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。