[報告]日本会議有志の第2次災害救援物資運搬隊から
3月29日・30日にかけて、日本会議と日本会議経済人同志会の会員有志(株式会社電硝エンジニアリング、住母家岩夫代表取締役社長ら)らが、第2次災害救援物資運搬隊を編成し宮城県気仙沼に生活支援物資を輸送いたしましたので、その模様をレポートにてお伝えいたします。
気仙沼は宮城県と岩手県との県境付近に位置し、津波被害の最も大きい地域です。
東北高速道路を北上しましたが、とくに福島県内に入ってからは、高速道路の路面が地割れしている箇所が多く、補修工事がされたとは云え、車体が上下する揺れが幾度もありました。道路の側道も陥没し、塀の破損や瓦解が所々に見られました。
道路を走る車の約4割は、自衛隊、消防隊、水や油を積載したタンクローリーと民間の支援物資運送車でした。
気仙沼に到着すると、支援物資の受け入れ場である「気仙沼青果市場」へ。青果市場は港から離れた内陸側に位置し、津波被害の比較的小規模な地域にありました。
民間物資支援隊の大半はここで荷を下し、帰るとのことで、被害が大きかった港方面は車両立入禁止区域となり、封鎖されていました。私どもの車両は「災害救援物資運搬車」との横断幕とステッカーを張り付けていたので、ある程度までは入ることができました。その後、徒歩で移動しましたが、港町が広がる地帯そのものには、自衛隊や民間業者から入ることが許されませんでした。
●地域全体を覆うヘドロ
車外に出るとヘドロの悪臭が鼻をつきました。自衛隊が幹線道路を復旧・整備しましたが、どこの路面もヘドロが乾いて真っ白でした。路面を見れば、一目で津波がどこまで来たのかが判り、「こんな高台にまで来たのか」と何度も驚かされました。
●津波で町が消えた
幹線道路から港町の方面に入ると、建物は9割が全壊していました。大東亜戦争後の写真で、焼け野原となり、遠くまで視界が開けている光景を見たことがありますが、それを想起する光景でした。瓦礫や流木をのぞいた道路以外は、土砂・ヘドロ・瓦礫でまっ平らになっていました。残った建物は、2階まで骨組だけを残して立っていました。市内の沿岸側の町はどこも同じ光景でした。
●港町は立入禁止
港町一帯へは、被災民以外は誰も入らせてもらえない状態でした。
港町は幹線道路や内陸川の町から大きな川を隔てた所にあります。港町から川を隔てた町の道は、整理されてはいましたが、家々はいまだ瓦礫や流木に埋め尽くされたままでした。川幅は、300メーター以上、深さもビルの4~5階はあるにも関わらず、津波は、その川の上を乗り越えて内陸の方へ押し寄せ、甚大な被害を与えたのです。橋の上に立ち、瓦礫や流木に埋め尽くされた家々を見て、そこに逃げ遅れ、被災された方々が未だ眠っておられるのかと思うと言葉を失いました。
●現場の陣頭指揮はすべて自衛隊
町の至るところでも、自衛隊が先頭に立って復旧作業に勤しんでいました。民間も消防隊等も出ていますが、現地は自衛隊員とその車両ばかり。自衛隊の力によって復旧作業が進められていました。
青果市場では、物資搬入は自衛隊員と一緒に行いましたが、上官が的確に指示を出し、淡々と作業は進められました。
現地を廻って、自衛隊員の皆さんは、被災し亡くなられた方々を連日目にしつつ任務に当たられているとのことでした。
現地は有事にも似た状態。有事には軍隊しかないと強く思いました。
亡くなられた方々のご冥福と被災した方々の安全、そして一日も早い復興を心よりお祈り申しあげます。
(災害救援物資運搬隊隊員:正田)