[報告]日本会議有志の災害救援物資運搬隊からの報告
日本会議と日本会議経済人同志会の会員有志(株式会社電硝エンジニアリング、住母家岩夫代表取締役社長ら)らが、日本の近代以降最大の震災となった東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の被災地域への生活物資支援のため、第一次災害救援物資運搬隊を編成、被災地の一つ宮城県塩竈市に物資を輸送いたしました。その模様をレポートを通してお伝えいたします。
救援物資は4トントラック1台、ワゴン車1台に、水、野菜ジュース、カップ麺などの食品類、携帯カイロ、タオル、衣類、ウエットティッシュなどの日用品、粉ミルク、紙おむつなどの乳児用品を満載。
3月23日早朝、運搬隊は埼玉県の電硝エンジニアリング本社で出発式を行った後、東北縦貫自動車道を北上し、目的地である宮城県塩竈市を目指しました。
塩竈市は仙台市の北部に位置し、国府多賀城が置かれた多賀城市に隣接、奥州一ノ宮である塩竈神社が鎮座する日本三景松島の玄関口。塩竈市には地震発生後2メートルの津波が襲い、20日時点で死者・行方不明者が70名、避難所生活者が約3300名、自宅退避が53000名と推定されていました。
●東北道北上につれ震災被害が顕著に
この日東北道は、宇都宮以北の区間で一般車両通行止め。届出のあった災害派遣の車両や大型車のみが通行を許されていました。東北へ向かう車は、応援のため各都道府県警から駆けつけたパトカー、人員輸送車、自衛隊の各種車両、救急車、タンクローリーなどが目立ちました。
日本会議の物資運搬隊が福島県内に入ると、東北道の路面の状態が途端に悪くなり、随所に段差があり、積載した支援物資が荷台で大きく弾みました。
東北道と並行して北へ伸びる東北新幹線は、現在も那須塩原・盛岡間で不通となっていますが、福島県・福島駅~宮城県・白石蔵王駅の間の随所で、架線を支える鉄柱が根元から倒れているのが車中からも確認できました。白石市、村田町付近の民家の多くが、屋根にブルーシートを引いており、このあたりでは、家屋の損壊という被害が多かったようでした。
●仙台平野壊滅
仙台南インターから仙台南部道路に入ると、広瀬川と名取市が合流する長町付近から、津波被害の痕跡が見られるようになりました。ここは河口から5キロは離れているはずだが、河川を溯上したのだろうか…。車内に緊張が走りました。
若林ジャンクションから仙台東部道路に入ると、仙台市内でも最も津波被害が大きかった若林区の惨状が目に飛び込んできました。この若林ジャンクションも、立体交差している部分が津波の被害を受け、瓦礫が流入。しかし懸命の修復作業により通行が可能となったのです。
車中からでも水田がヘドロや建造物の瓦礫、そして数え切れない流木で覆いつくされていることが分かりました。
仙台地方では、平野の田畑に住む人々の住宅の周囲に、イグネ(居久根・居垣根)と呼ばれる防風林・防砂林が作られてきました。津波はこれらの林を根こそぎなぎ倒し、400年来の風景を一変させました。仙台平野の幅5キロ、南北40キロに及ぶ耕作地が、塩害により今後数年間は稲作困難となることが予想されます。
●製造業・貿易業にも大打撃
運搬隊は、仙台東部道路を北上し、仙台東インターチェンジで有料道路から一般道へと降りることを余儀なくされました。仙台市と多賀城市の境にある仙台港インターチェンジ付近は津波の被害が大きく、また橋梁のジョイント部分で15センチ程度の段差が生じ緊急車両であっても通行が不可能だというのです。
その後、産業道路に沿って津波被害の甚大な被害を受けた多賀城市を進みました。物資輸送を支える主要道路は往復4車線が通行できるようになっていたましたが、歩道には津波で破壊された自動車が無残な姿をさらし、見渡す限りに家財道具や事務用品、飲食店から流出し異臭を放つ食品等が散乱していました。
家電量販店やショッピングモールなどは、単純な建築構造のためか激しく損壊していました。仙台港の輸出用車両基地や一般車両の駐車場から流されてきた車、コンテナなどが二重三重に折り重なり店舗にめり込んでいました。通常の交通事故では、考えられない光景。火力発電所からの送電鉄塔も激しく傾斜していました。
●自衛隊の献身的努力による道路復旧
陸上自衛隊第6師団第22普通科連隊多賀城駐屯地前を通過。「22普連」では、地震発生後直ちに災害派遣の準備態勢に入り、車列を整えていたところ、津波が砂押川を溯上、氾濫したため派遣用のジープ、輸送車が水没するという残念なことになってしまいました。
陸自第6師団(山形県神町)では、発災後、生存者の救助・行方不明者の捜索に重点を置き、12日2670名、13日1941名、15日35名、16日16名の人命を救助、19日以後は活動の重点を物資輸送、給水、炊き出し、衛生、道路啓開、瓦礫除去といった民生支援に切り替えました。
我々運搬隊を含め続々と被災地へ向かう災害支援のトラックやタンクローリー、救急車両などが、重要な幹線道路で安全に通行できるのは、自衛隊員の機動力と献身的な努力あってのことであることを痛感しました。
●慢性化する物資不足、輸送力と流通ルート回復が急務
運搬隊は「塩釜ガス体育館」で物資を降ろしました。当地は塩竈市内で最も高台にあり、体育館は全国から寄せられた支援物資の集積センターとなっています。
体育館内には多くの支援物資が積み上げられていましたが、それを避難所や自宅退避者に配布する体制は必ずしも十分ではないようです。市内には依然として孤立状態にある離島もあります。自宅退避者に対して市から配給された物資は発災後10日間で一人当たりカップラーメン1個だと言います。
避難所の様子は繰り返し報道されていますが、避難所に通えない高齢者、ガソリン不足や津波で移動手段を失った被災者には物資が届かないという現実があります。市内コンビニエンスストアは、どこも営業再開のめどが立たっていません。仙台市内中心部の商店街でも、地震後営業再開できたのは2週間で2割程度。ほとんどが物不足に苦しんでいます。
ニュースでは、福島県から出荷された葉物野菜に基準値を上回る放射性物質が検出されたとして、政府は福島県に対して出荷・摂取を見合わせるよう指導したと繰り返し報道されています。
宮城県ではいくつかの自治体で電力が回復し、テレビの視聴も可能となってきました。極端に物資が不足し、生鮮食料品の流通がストップしている中、「直ちに影響が出るものではない」という発言と「念のために摂取しないよう」との官房長官会見を、避難所暮らしでおにぎりやカップ麺など炭水化物中心の食事を強いられている人たちは、どんな思いで聴いたのでしょうか。
●被災した予備自衛官も活動開始
運搬隊はその後、国道45号線沿いや塩釜港周辺の被災状況を視察。途中、被災した相原酒店の前を通過。
ここは宮城の地酒を中心に扱うお店。先日、店主の相原健太郎さんが予備自衛官としての召集を伝達を受け、これに応じるシーンがNHKで放映されていました。
瓦礫に埋もれた店舗を背景に「この時のために訓練してきた。今いかなかったらこのあと10年後悔する」と相原隊員は語っていました。
また、「家のことで頼りにしていたが、みんなのためだから」と送り出す母親の姿も印象的でした。このほかにも多くの被災した予備自衛官が、23日に多賀城駐屯地に出頭し民生支援活動を開始しました。
●すべてのライフラインが途絶した離島
塩釜港では、観光フェリーが岸壁に打ち上げられていました。フェリーや離島を結ぶ連絡汽船の発着場も一階は水没したため、業務が再開できる状態ではありません。
塩竈市には松島町、東松島市と隣接する松島湾上に桂島、寒風沢島、野々島、朴島などの有人島があります。これらは震災後依然孤立したままで、物資輸送は自衛隊に頼らざるを得ない状況に置かれています。それでも塩竈市職員によれば、島民たちは「もっと大変なところがあるから我々は大丈夫」と語ったと言います。
国土交通省は航路の安全確保や障害物除去が確認できたため、26日から連絡船の運行再開を発表しました。
●警告されていた連動型大地震
東北地方を襲ったM9.0という巨大地震は想定されていなかったのでしょうか。
政府がこれまで想定していた連動型巨大地震は、静岡県沖を震源とする「東海地震」、愛知県・三重県沖を震源とする「東南海地震」、そして和歌山県から高知県沖を震源とする「南海地震」の三つが連動して発生するタイプの地震でした。
一方宮城県沖では、過去30~40年を周期としてM7.5規模の地震が繰り返され、各種研究機関の想定でも30年以内の「宮城県沖地震」発生確率を99%としてきたため、地元自治体はその想定に基づいて警戒や訓練を繰り返してきました。
ところが今回の地震は、その想定を大きく上回り、幅200キロ、南北400キロで海底地盤が動くという1000年に一度の巨大地震となってしまいました。
近年、宮城・福島・茨城にまたがるマグニチュード8.5(想定)の巨大地震が貞観11(869)年に発生していたことが、平安時代の歴史書から、また津波堆積物が沿岸から5キロ程度の内陸部にまで流入していたことなどによって明らかとなりました学会では被害想定の見直しを始めていた矢先の巨大地震発生でした。今回の地震は地震学・建築学に携わる研究者にも大きな衝撃を与え続けています。
第1次運搬隊は、往復14時間の強行日程を終え午後10時過ぎ、埼玉県の電硝エンジニアリング本社に帰着しましたが、日本会議・日本会議経済人同志会の会員有志の第2次災害救援物資運搬隊が、昨3月28日より、宮城県気仙沼方面に向けて出発、帰着しております。その模様につきましては、改めてお伝えいたします。(日本会議事務局 村主)