天皇陛下御即位二十年を寿ぎて 明石元紹さんに聞く
忠恕(ちゅうじょ)の大御心
陛下の「ご学友」・元日産陸送(株)監査役 明石元紹 さんに聞く (※『日本の息吹』21年5月号より)
あかし もとつぐ 昭和9年1月、東京都生まれ。貴族院議員明石元長の長男、祖父は台湾総督・陸軍大将の明石元二郎。昭和13年より学習院高等科卒業まで皇太子殿下(今上陛下)の「ご学友」としてお側に。慶応義塾大学経済学部卒業後、プリンス自動車に入社。日産プリンス東京販売(株)取締役、日産陸送(株)監査役。その他、日本李登輝友の会・初代理事を務める。
天皇陛下御即位二十年に際し、各界からの声を寄せて頂きます。
●戦中、戦後の陛下
― ご学友となられた経緯は?
明石◆祖父の明石元二郎が男爵の爵位を頂戴したことがきっかけの一つです。
私は陛下御誕辰の約半月後に生まれ、名前も、陛下のご幼名の「継宮」に肖(あやか)っています。祖父(元二郎)と父(元長)の「元」に「つぐ」をくっ付けて、さすがに同じ「継」の漢字は畏れ多いので、「紹(つぐ)」の字を当てたのです。
陛下の御側に上がったのは、女子学習院付属幼稚園に入園したときが最初でした。それから学習院高等科までずっと同じ学年でご一緒しました。
学習院初等科に入学した年の暮れに、大東亜戦争が始まるのですが、すでに入学前から日米間は不穏な空気となっており、それまで学習院院長だった野村吉三郎海軍大将が急に駐米大使に任命され、私たちの入学式のときに、お別れのご挨拶をなさいました。
戦局が激しくなって殿下(今上陛下、以下同じ)と私たちは沼津から日光、そして奥日光の湯元へと疎開先を転々としました。終戦の少し前、原子爆弾が落とされた後の頃、三大紙の一面に、疎開先の殿下のお写真が大きく載ったことがありました。あとで知ったことですが、万が一敗戦となって昭和天皇が退位なさる可能性なきにしもあらず、との国民の不安を払拭するため、皇位継承者の殿下のご壮健な様子を国民に知らせようとの意図があったようでした。
終戦から二ヶ月ほどたって、私たちは殿下とご一緒に原宿駅に降り立ちました。見渡す限り一面焼け野原でした。その衝撃について殿下も後に回想なさっています。
敗戦により、殿下の教育環境も激変しました。その象徴はヴァイニング夫人の登場でしょう。夫人に関してはいろいろな評価もあるでしょうが、少なくとも授業を受けた当事者の私の印象では、謙虚な人でした。というのは、戦勝国が送り込んできたのであれば、戦勝国の宗教や文化を押し付けてアメリカナイズしようとしてもおかしくはない。夫人は自分自身の考えをしっかり持つようにということは強調しましたが、キリスト教の神様の話などは一度も聞いたことがありません。
それから小泉信三先生は殿下のご教育に全力をあげて当たられた方で、私たちもお慕いしておりました。
小泉先生の遺稿を読み返してみると、その薫陶の一つひとつを、陛下はよく実践しておいでだったということに改めて思い当たります。
例えば、「忠恕」という言葉です。「忠」は誠実であること、嘘をつかないこと。「恕」は人に優しく接すること、人の気持ちを汲み取ることです。
私は大学は慶応義塾大学に進み、小泉先生には大変お世話になりました。そして陛下は、ご会見でお好きな言葉として「忠恕」を挙げられたことがございました。
小泉先生は、ご子息も含めて学徒動員で多くの塾生を死なせたことに対して塾長として悲痛なお気持ちを持っておられた。そのお気持ちが若い殿下に全精力をかけた源ともなっていたのでしょうか。
馬術とテニス
陛下はテニスをはじめ、万(よろず)のスポーツに通じておられますが、馬術の腕前も一級でした。
高等科の馬術部で、主将であられた殿下とご一緒したのですが、敗戦直後のこととて、入手できる馬は限られており、なかにはいわゆる暴れ馬も多かった。
当時の馬術の試合では、お互い同じ馬に乗って技を競うのですが、さすがに殿下にはおとなしい馬が回されるので、殿下の勝負はいつも引き分けで、チームの勝敗は暴れ馬が回ってきた者同士でつくことが多かった。
私は暴れ馬専門という役回りでしたので、主将である殿下はご不満でした。
あるとき、殿下がどうしても暴れ馬に乗ると言われて、難しい馬に乗られて勝利を挙げられたことがありました。馬という動物は乗馬の基礎のちゃんとした人に対してはよくいうことを聞くものです。そのときの殿下の心底うれしげなご様子が忘れられません。
馬術に絡んでポロのお相手もよくさせていただきました。日曜日限定で、平日や祝祭日になさることは一切なく、私は三十年間お供させていただきましたが、御即位と同時におやめになりました。
― 今年四月十日、両陛下には御大婚五十年をお迎えになられました。御成婚当時のことについて。
明石◆いわゆる「テニスコートの恋」について、巷間の誤解をひとつ解いておきたいと思います。
それは私自身の失敗談でもあるのですが、あるテレビ番組で、つい「トーナメントの一回戦でお二人は当たられた」と言ってしまって、あとで、殿下のご周辺から訂正要求が出されたということがありました。
本当は殿下のペアと美智子様のペアが当たったのは四回戦だったのです。当時はマスコミなどで小泉さんが舞台をアレンジしたというようなことが噂されていたのですが、一回戦で当たったのならそう仕向けることも可能かもしれませんが、四回戦ということはお互い勝ち進まないことには当たりようがないわけですから、仕組んだというのはまったく見当違いのことなのです。
相手が殿下であっても真剣に試合に臨み、粘り強さを発揮された美智子様の精神力に殿下は注目されたのです。
美智子様とご結婚されて、劇的に変わったのは、私ども「ご学友」をゲストとして遇していただくようになったことです。
殿下の大切なお友達として。皇后陛下は、聡明で努力家でいらっしゃいますが、どんなことを言えば相手の心に届くかという勘所を押さえておられて、私どもはお会いするたびに感動を新たにしております。
こういうこともございました。小泉信三さんは生前、奥さまの誕生日には必ずお花を贈っておられた。ところが、小泉さんが亡くなった後も奥様のお誕生日に同じ花が届けられ、それは奥様のお亡くなりになるまで続きました。皇后陛下の御心遣いでした。このようなお気持ちの優しさを持った方を伴侶に迎えられた陛下はお幸せだと思います。
伝統と公(おおやけ)のために
― 改めて御大婚五十年のご感慨は?
明石◆大きく分けますと、前半はお二人ともお若く好奇心旺盛で、海外に対するご関心がとくにお強かったようにお見受けいたします。
後半はそれがすっかりお変わりになって、日本の古き良きもの、伝統文化に志向を集中しておられます。日本回帰と申し上げるのは畏れ多いのですが、世界中をご覧になった上で、日本の伝統をより大切にお感じになっていることの意味するところは深いと思います。
― 御即位二十年について。
明石◆とくに後半の十年は、ご公務をはじめ、公(おおやけ)のことに百パーセント全力投球なさっていると拝しております。
ご健康の維持のためのスポーツ等はなさいますが、ご自身の楽しみは極力お減らしになって、公のための時間をより長く大切になさっている。それはあたかも他の皇族方に、ご自身の背中で皇族の務めについてお示しになっておられるかのごとくです。
両陛下のお側におりますと、ハッとして感動させられることがたびたびなのですが、こういうこともございました。ポロをやるときには宮内庁の職員も来るし、馬運車(ばうんしゃ)も出します。
そして両陛下は、競技の合間には職員たちと団欒をなさる。その団欒のとき、馬運車の運転手が遠くで待機していると、
陛下が、「なんで運転手さんは来ないの?」とおっしゃる。
陛下にとってはお友達も職員もどんな職業の方でも一人の日本人として同じ目線でみておられる。一視同仁の大御心を拝し、感銘を深く致しました。(三月二十五日インタビュー)