奉祝 両陛下御成婚五十周年  作家:門田隆将さんに聞く 

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皇室

毅然たる日本人たれ!御成婚と学習院の奇跡

『神宮の奇跡』著者、作家 門田 隆将さんに聞く (※『日本の息吹』21年4月号より)

かどた りゅうしょう   昭和33年、高知県生まれ。中央大学法学部卒業後、出版社に勤務。政治、経済、司法、歴史、スポーツなど幅広いジャンルで活躍。平成20年、ジャーナリストとして独立。著書に『裁判官が日本を滅ぼす』『甲子園への遺言』(NHKドラマ「フルスイング」の原案)『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』『ハンカチ王子と老エース』『激突!裁判員制度 井上薫vs門田隆将』など。

■戦後の経済発展の起爆年とも言える昭和三十三年に起こった二つの奇跡。学習院はなぜ、大学球界の最高峰リーグで優勝できたのか。皇太子妃決定の決め手は何だったのか。ベストセラー作家が描いた「御成婚」の真実とは―

●学習院、奇跡の優勝

― 昭和三十三年の二つの奇跡―学習院大学野球部のリーグ優勝と皇太子御成婚を描いたご著書『神宮の奇跡』は、隠されたエピソードも交えた傑作と存じます。この本を書かれたきっかけは?

門田◆大学野球の名門、駒澤大学野球部の太田誠監督(当時)が、私にふともらした言葉がきっかけでした。「本来ならあのとき優勝するのは駒澤だったはずなんだ」と。「あのとき」とは昭和三十三年、東都大学一部秋季リーグ戦。当時、駒澤大学は初優勝を狙える好位置につけていて、太田さんは主将で四番でした。ところが、勝てば優勝が決まるという試合で、学習院大学に負けてしまった。そしてその後、三度の優勝決定戦の末に優勝をさらったのが、その学習院でした。東都大学リーグといえば、現在では東京六大学をもしのぐ大学球界の最高峰リーグ。その頂点にあの学習院が立ったというのです。私は、野球は結構詳しいほうなんですが、学習院が優勝したことがあるなんてまったく知りませんでした。実際、学習院の優勝は後にも先にもその一回のみ。

東都リーグで優勝するには、普通は大学を出て即プロ入りするような傑出した選手がいないと無理なんです。ところが、当時の学習院には、そんな有名選手は一人もいなかった。

母校駒澤の監督になって、幾多の栄光に輝いている太田監督が、五十年経った今でもなお悔しそうに語る、学習院大学の優勝とは何か。そんな奇跡がなぜ起きたのか。

ときは、昭和三十三年。私が生まれた年でもあり、「これは何かあるぞ」と直感して取材を始めたわけです。

●戦後史のターニングポイントだった昭和三十三年

― まさにその昭和三十三年という年がポイントだったわけですね。

門田◆昭和三十三年は戦後史の中でも特別な年だったと、私は以前からそう思っていました。戦後史は昭和三十三年が分水嶺となっている。それ以前は、敗戦のショックと痛手で立ち直るのに必死だった。そして、戦争の傷を乗り越え、爆発的な発展に向かって突き進み始めたのが昭和三十三年なんです。「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれたのは昭和三十一年でしたが、その段階ではまだ爆発的な動きとはなっていませんでした。

― 戦後の経済発展は、昭和三十三年が決定的な年だったと?

門田◆象徴的なのはテレビですね。テレビの普及率が昭和三十三年に二桁になった。パソコンの急激な普及を考えれば分かるように、商品というのは普及率が二桁になると社会現象になる。まさに映画『ALWAYS~三丁目の夕日』の世界で、テレビの前に人だかりができる。そこに映し出されたのが、長嶋茂雄のプロデビューであり、空手チョップの力道山であり、東京タワーの完成であり、そして極め付けが皇太子妃の決定だったわけです。まさに日本人の「気」を呼び起こすような出来事が集中して起こったのが昭和三十三年で、そこから日本の爆発的な発展が始まりました。

●日本人の「気」を証明した学習院野球

― 学習院の奇跡の優勝もそのような「気」の中での出来事だったわけですね。にしても、なぜ、学習院は勝てたのでしょう。

門田◆まさに奇跡なんですね。「奇跡」と言いすぎると顰蹙を買いそうだけど、当時の学習院の選手の技術は、例えばエースだった井元俊秀投手は、入部当初はショートからファーストまでボールが届かなかったくらいでした。

そんな弱小集団を、二二六事件に遭遇し、南京攻略戦その他に参加した元陸軍大尉の島津雅男監督が鍛え上げた。学習院には他の野球名門校のように合宿所も専用バスもなかった。しかし、誰も言い訳も甘えもなく、厳しい練習に耐え、創意工夫を怠らず、試合では驚異的な粘りと執念を見せた。しかも勉学もきちんとやるのが当たり前で、授業に出ていなかったら退部させられるというほど厳しかった。

いま、なんでそういう奇跡が起きないかというと“苦労人”がいないからでしょうね。自分の置かれている立場や環境に不満を言わず、コツコツと、そして粛々と努力する、古き良き時代の毅然とした日本人の集団があの時、奇跡を成し遂げたんですね。

●もうひとつの「奇跡」、皇太子御成婚

― その学習院の奇跡と並行して昭和三十三年にはもうひとつの「奇跡」が進行していたわけですね。

門田◆そうです。学習院の奇跡の優勝が十一月二十四日、その三日後の二十七日に、皇太子妃が決まったのです。これこそ、戦後史の中で特筆すべき画期的な出来事でした。いわゆるミッチーブームが起こり、皇太子御成婚は、敗戦から立ち上がった日本人の将来への夢と希望の象徴となりました。まさに、戦後というものが終わって、新しい「気」が爆発していく起爆剤となったのです。

歴史の巡り会わせが不思議だなあと思うのは、昭和三十三年に起きた、この二つの奇跡は密接に関わっていたんですね。実は皇太子殿下なくしては学習院の優勝はありえなかったのです。というのは、学習院を東都リーグの一部に昇格させた立役者である草刈廣投手は殿下のご学友で、そのご縁で草刈氏はかつて東大野球部の選手でもあった戸田康英東宮侍従に野球の手ほどきをしてもらい、野球選手として大成していくのです。このような関わりから殿下は学習院の野球部を熱心に応援され、球場にまで応援に駆けつけられるほどでした。

学習院が優勝を目指して死闘を繰り広げていた頃、殿下もまた皇室とご自身の将来をかけて奮闘なさっていました。華族からの妃選びというそれまでの慣例を前に、正田美智子さんは三度にわたり殿下側の要請を固辞されていました。しかし、殿下は自らの説得によってそれを“逆転”されたのです。

十一月二十一日、学習院が優勝に王手をかけて闘ったその日は、宇佐美宮内庁長官が正式な使者として正田家を訪れた日でした。

まさに大逆転。果たして何が決め手だったのでしょうか。昼間、学習院の野球の試合の応援に出かけたその日の夜、殿下は、電話係としてお二人の間を取り持った学習院の後輩、織田和雄氏と日本酒で乾杯されました。

●妃殿下を動かしたもの

実は織田氏には、お二人がご結婚して以来ずっと疑問に思っていたことがありました。それは、お二人はどうして、そして何のために一緒になられたのだろう、という疑問でした。民間から初めて皇室に入られるということは、並々ならぬご決心あってのこと。果たして殿下はどうやって美智子さまを説得されたのだろう。

織田氏のそのこだわりは、織田氏自身が絡んでいるある事件のことが念頭にあったからでもあります。いわゆる「柳行李(やなぎごうり)問題」です。

それは、殿下が美智子さまを説得された決め手となった言葉が「柳行李一つで来てくれ」つまり、「身一つで」嫁に来て欲しいという庶民的な言葉だったと巷間流布されている問題です。しかし、織田氏の語る真相はこうでした。ある日、殿下が美智子さまと電話でお話しされる前に、民間では「柳行李一つで来てくれ」と言うこともあるんですよ、と殿下に申し上げた。美智子さまとの電話が終わって書斎から出てこられた殿下が「言っちゃったよ」と言われたので、てっきり「柳行李」のことを言われたのだと織田氏は勝手に解釈してしまった。ところが実際は、殿下ご自身の誠実なお言葉で、説得なさったのだと、あとでわかった、と。

昭和五十三年、御成婚二十周年記念の写真集が時事通信社から出て、そのなかに黒木従達東宮侍従長が寄せた文章がありました。

〈「度重なる長いお電話のお話しの間、殿下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」と後に妃殿下はしみじみと述懐なさっていたが、この皇太子としてのお心の定まりようこそが最後に妃殿下をお動かししたものであったことはほぼ間違いない〉

黒木さんの書いた通りであると今度は別の侍従から織田さんは聞いている。皇太子としての義務が最優先であり、国民のためにやらなければならない大きな仕事のために力を貸してくれないか、つまり、真実は「柳行李」とは正反対の内容だったのです。

●サイパンのうしろ姿

何が決め手となって、そして何のためにお二人はご結婚さ

れたのか、それは黒木さんの手記の通りと知った織田さんでしたが、その答えを心底納得できた出来事が、平成十七年にありました。それは両陛下のサイパン慰霊の旅でした。ニュースで、バンザイクリフに向かって深々と頭を垂れておられる両陛下のうしろ姿を見たときに、「ああこれだ!」と織田さんは衝撃を受けたというんですね。「あのお二人のうしろ姿で、お二人が戦争を背負って生きてこられたことがわかりました。……あのお姿がすべてを物語っているように感じました」

サイパンが玉砕した翌日に、当時、十歳だった陛下は沼津の御用邸から日光に再疎開されています。サイパン陥落の意味するところは、絶対国防圏が崩れたことで、日本全土が空襲にさらされるということでした。それは陛下に鮮烈な記憶として残っていたことでしょう。そして、終戦から六十年経った平成十七年、かつて日本軍の将兵がバンザイしながら突撃していった、あるいは、日本人居留民がバンザイしながら崖から飛び降りていった、そのサイパンの地に両陛下は降り立たれたのでした。

陛下の戦争に対する思いは深いと思います。昭和二十年八月十五日、終戦の玉音放送当時の皇太子殿下のご様子を、元学習院御用掛の高杉善治氏は次のように記しています(『若竹の如く』読売新聞社)。

〈ラジオの前にきちんと正座して聞いておられた殿下は、急に目を閉じ、頭を深く垂れ身動きもせずじーっとお聞きになっておられたが、しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた。(略)ご放送が終わった後もしばらくその場にすわり続けられ、万感無量をじーっとこらえながら、小さなお心を痛め、それに打ちかとうと覚悟されていたにちがいない。しっかり結んだお口元には堅いご決意のほどが拝察され、お気の毒に思いながら、また凛々しさに心打たれるものがあった〉

陛下は「公」の方で、「私」のない方です。私たちが神社にお参りにいって、家族が息災で息子が志望校に合格しますように、などというような“私事”の願いごとは陛下にはない。ただひたすら国安かれ民安かれと祈っておられる。ですから、そんな大切に思っている国民が戦争で亡くなっていったことに対する思いは、他の誰よりも強いのではないでしょうか。

実は、学習院の選手たちを根底で支えたのも、この戦争への思いだったのではないか。先述した井元投手は、入部したての頃は、上級生から「下手なやつが来たなあ」と言われるくらいでしたが、彼には戦争の苦難を乗り越えた不屈の精神力があった。つらい練習中、彼を支えたのは、「命まではとられまい」との思いでした。彼は朝鮮からの引揚者で、途中父と妹二人を失うという、九死に一生の中で日本に帰って来ていた。その体験に比べれば、どんなことでも耐えていけたのです。

そういう気迫、気概、根気といった「気」を持った日本人こそが戦後の発展を牽引していった。その根底には戦争をくぐり抜けて来た体験があった。そして、その戦争を戦後一貫して背負ってこられたのが今上陛下であり、陛下と思いを同じくしようとされてきたのが皇后陛下だったのです。

●陛下こそ毅然たる日本人の象徴

― 昭和三十三年の二つの奇跡には、現代の我々に対する強烈なメッセージがありますね。

門田◆「気」が大事なんですね。「景気」というように経済も「気」が関係しています。みんな下を向いてしまったら経済は無理です。バブル崩壊以降、日本は「気」がずーっと後ろを向いてしまっているのではないでしょうか。

昨年十二月に内閣府から発表された統計には皆さん、驚かれたと思います。一人当たりGDPで日本はなんと世界十九位、G7の中で、ついに最下位になったのです(二〇〇七年分 *註)。

いつの間に、なぜそうなってしまったのか。それは日本人の心が弱くなってしまったからではないか。精神が弱くなってちょっとした壁にぶち当たってもすぐシュンとなってしまう。犯罪にもその傾向は出てきている。「誰でも良かった」式の殺人事件がその典型です。「歪んだ自己愛」に起因する犯罪が増加し、日本人が精神的に弱くなっていることと機を一にしているということが、精神医学上も言われ始めています。

日本人がいつの間にか、甘えや言い訳、あるいは癒しなど、そういうものばかり求めるようになってしまった。みんなオブラートに包んで、「それがあなたの個性だからいいのよ」とか、「あなたはそのままでいいのよ」、と子供たちを甘やかして育てるようになってしまった。戦後民主主義教育がその一因を成すことは間違いないでしょう。

きちんとした就職をしなくても、それが個性だからといって「フリーター」みたいな言葉が編み出された。コツコツと、そして粛々と努力して自分の持ち場で責任を果たしていく、そういう本来の日本人の勤勉の美徳というものが軽視されるようになって、今のような脆弱な精神の状況が出来上がってしまった。

日本人が本来の日本人の姿を見失いかけている。そんな脆弱な日本人は本来の日本人じゃないよ、長い間、DNAに植え込まれている日本人の美徳、毅然とした日本人というのはそうはなくならないはずだ、だから思い出そうよ、というのが、私が言いたいことなのです。

― 門田さんの他の作品の主人公たち―『甲子園への遺言』の高畠さんも、『なぜ君は絶望と闘えたのか』の本村さんも皆、毅然としていて本当に感動しますね。もちろん本書の学習院の選手たちも……

門田◆そして陛下こそは、毅然たる日本人の象徴だと思います。織田さんがサイパンでの両陛下のうしろ姿に「感動したんだ」としみじみ語ってくれた、そのときに私は、物語が完結できたなあと思いました。

小説というのは創る仕事ですが、ノンフィクションは掘る作業です。「創る」のと「掘る」のとはぜんぜん違う。今回も「掘り当てた!」という私なりの感動がありました。特に、織田さんの証言を聞いたときというのは、自分の書きたかったテーマが最初から最後まで一つの物語としてつながった瞬間でした。玉音放送に涙しつつも、これに挫けず国民のためにしっかりしなくてはいけないと決意され、その思いで戦後生きてこられ、そしてそれをやりぬくためには協力してくれる人が必要なんだと美智子さまを娶られ、ずっと「戦争」を背負って、その思いを慰霊の旅という行動として示された。まさに毅然たる日本人とは、陛下ご自身がそうであったと思います。そして、その陛下も関わった学習院の奇跡の優勝の物語を作った選手たちもまた毅然とした日本人たちでした。

この御成婚五十周年、ご即位二十周年の記念すべき年に、陛下とはどういう方なのか、本来の日本人とはどういうものなのか、ということを多くの人に知ってほしい。そして、そういう毅然とした日本人本来の姿を取り戻したら、いまの経済不況なんてどうってことはない、と思います。「景気」はまさに「気」が起こすもの。私はそう思っています。(一月二十九日インタビュー)

■註

(*註) 内閣府が25日発表した2007年の1人当たり名目国内総生産(GDP)は3万4326ドル(約404万円)で、経済協力開発機構(OECD)加盟30カ国中19位。前年の18位から順位を下げ、1971年以来、36年ぶりに過去最低の順位に並んだ(平成20年12月26日新聞各紙より)。

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