建国記念の日奉祝行事 【中央会場】
2月11日 令和最初の建国記念の日、天皇陛下御即位の佳節を奉祝し、全国400を超える会場で 盛大な奉祝行事が開催される
【中央会場】
〔写真上〕2月11日、全国各地の奉祝会場の中央会場として「建国記念の日奉祝中央式典」 が明治神宮会館にて1200名で開催。
〔写真下〕これに先立ち、明治神宮近くの表参道では神輿や大学生のブラスバンド、 子供たちの鼓笛隊などによる奉祝パレードが沿道を賑わせた。
令和2年、皇紀2680年の建国記念の日(紀元節)に当り、全国約400を超える会場で各種奉祝が取り組まれました。本年は、令和の御代最初の建国記念の日であり、天皇陛下御即位の佳節にあたり、建国の偉業を偲び、皇室を戴く我が国の悠久の歴史と伝統に深い歓びと誇りを喚起する行事となりました。
全国の奉祝行事の中央行事として、「日本の建国を祝う会」(大原康男会長)主催の「建国記念の日奉祝中央式典」が、会場の明治神宮会館に1200名を集め開催されました。式典では皇室の弥栄を祈念するとともに喫緊の課題となっている安定的な皇位継承制度の確立や、国の安全保障をめぐり一層の憲法論議の推進を求める決議を採択しました。
式典では、22ヵ国からの駐日外交団を代表してサンマリノ共和国のマンリオ・カデロ全権大使が祝辞、また各党からは、自民党より稲田朋美幹事長代行、日本維新の会より石井苗子女性局長がそれぞれ党を代表して挨拶し、改めて憲法改正への決意を披瀝しました。
この日、全国各地では北は北海道から南は沖縄まで、奉祝式典や記念講演会、奉祝パレードなど華やかな行事が繰り広げられ、日本の建国をお祝いしました。
[地方議員]地方議員から「誇りある国づくり」を~近藤永太郎京都府議に聞く(令和2年5月)
日本会議近畿地方議員連盟会長
近藤 永太郎 京都府議会議員に聞く
自民党通達は、憲法改正を実現するための取り組みを一つ一つ重ねていた我々にとって、大きな後押しとなった。新型肺炎という未曽有の危機に直面する今こそ、国民を守れる憲法へするため意識喚起を図りたい
■大阪が起点
― 昨年11月25日、日本会議近畿地方議員連盟(以下、近畿議連)が設立されました。そこにいたる経緯をお聞かせください。
近藤◆
平成20年、近畿ブロックで初となる日本会議大阪地方議員連盟が設立されました。そこから12年を経て、ようやく近畿ブロック議連を立ち上げることが出来ました。大阪では、吉田利幸前大阪府議のご尽力が大きかったんです。吉田前府議は、大阪府議会、大阪市議会、堺市議会などの10市議会をまとめ約100名を集めて、議連を設立されました。強いリーダーシップを発揮されました。その後、近畿のブロック議連を作る、という構想の中で、平成25年からは毎年、近畿ブロック会議を開催してきました。全7回会議が行われましたが、その流れの中で、京都府や兵庫県の地方議員連盟も出来ていきました。
― 6年に亘る会議の積み重ねで、ようやく近畿議連が設立されたわけですね。
近藤◆
昨年10月に和歌山県の議員連盟ができました。和歌山はなかなか議連が設立できなかったんですね。先に近畿議連を立ち上げてしまおう、という議論もありました。ですが、私としてはやはり、現場で議連設立に向けて頑張っておられる議員の先生もいらっしゃいましたので、和歌山県議連の設立を待ちたい、という考えでした。
■自民党幹事長通達が起爆剤となり憲法研修会が各地で開催される
そのような中で、和歌山県議連設立のきっかけとなったのが、昨年10月に自民党本部から出された憲法集会を促す通達でした。これは二階俊博幹事長名で出されたもので、都道府県連、地域支部が協力して、憲法改正研修会を開催するように呼びかけたものでした。和歌山は二階幹事長のお膝元です。さっそくその通達が効力を発揮して、昨年10月18日、二階幹事長出席の下、1600名が参加して「憲法を考える県民集会」が開かれました。通達後、最初の憲法研修会となったわけですが、これが起爆剤となり、全国各地で憲法研修会が開かれるようになりました。そしてこの時に、和歌山県地方議員連盟も設立されたのです。
― 党本部からの通達はやはり力がありますね。
近藤◆
そう感じています。実は、今年2月20日付で、党の組織運動本部から通達が出されました。「友好団体に向けての憲法改正議論喚起のお願い」というものです。以前の通達は、憲法研修会を行うように、というものでしたが、今回はそこから一歩踏み込んだ形になっています。友好団体の地方組織が憲法改正の研修会を行う際には、各支部連合会として協力をするように、とあるのです。友好諸団体が開催する憲法改正の研修会には積極的に参加したり、講師派遣の協力をしてほしい、という通達なんですね。しかしながらこれらの通達は、必ずしも府県連会長に周知されているわけではありません。ですので私どもとしては、この通達をしっかりと周知するとともに、憲法研修会をさらに開催し、また友好団体の研修会も一緒に盛り上げていきたいと考えています。
― 近畿ブロックでは、和歌山県の他にも、既にいくつか憲法研修会が開催されていますか?
近藤◆
はい。中でも、特筆すべきは兵庫県での開催です。今年2月8日に、加東市支部と宝塚支部主催でそれぞれ憲法研修会が開催されました。講師は2会場とも稲田朋美衆議院議員です。同日の午後と夕方に開催することで、講師の先生の負担軽減にもなりますし、効率よく開催できるようになるわけです。近畿議連では、このスタイルを活用していきたいと考えています。
― いろいろ工夫することで順調に開催できますね。
■国民を守れる憲法に
近藤◆
ところがこの度の新型コロナウイルスの影響で、既に何会場か中止を余儀なくされました。コロナウイルスはまさに「未知との遭遇」です。地震や台風などの自然災害ではありませんが、未曽有の危機に直面していると思っています。政府も必ずしも実態を正確に把握できていない、医師も見解が分かれる、という状況です。危機感を持つことは大事ですが、不安を煽ってはいけない、と考えています。国としては「国民の命を守る」「財産を守る」「生活、暮らしを守る」ことが大事です。「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の法改正が成立し(3月13日公布、14日施行)、新型コロナウイルスにも適用されることとなりました。もちろんこれも緊急に対処するための一つの方法ではありますが、これで全て良しとするものではありません。
― 様々な場面で、個人の人権が制限される場面も出てきます。
近藤◆
そうしたことも含め、国民を守るため、社会を維持するために憲法はどうあるべきかについて、国民で議論していかなければならない事態に直面していると思います。世界に目を向けても、中国はもちろん、ヨーロッパやアメリカでは、ものすごい勢いで感染が拡大しています。一方、我が国は、様々な措置を行いながら、現在までは何とか発生数をゆるやかに抑えていますし、医療崩壊もしていません。もちろん予断は許しませんが、私は、我が国が国際的に果たす役割が大きくなっているようにも思います。だからこそ、きちんと存在感を示せるような国家になるためにも、緊急事態条項をはじめとする憲法の在り方をしっかりと議論し、国民を守れるような憲法に変えていかなければなりません。憲法改正が発議されれば、国民投票が行われるわけですが、それに備え、国民一人一人が、自分を見つめ、自分が所属している国を見つめてゆく、そんな意識喚起もしていきたいと思っています。
(3月20日インタビュー/『日本の息吹』令和2年5月号より)
[地方議員]地方議員から「誇りある国づくり」を~古賀都議、中屋都議に聞く(令和2年4月)
「1千名ネットワーク構築に向けて
~1千名のネットワークを目指し、憲法改正の機運を関東から高めていきたい」
日本会議関東議員連盟
古賀 俊昭 都議会議員
中屋 文孝 都議会議員 に聞く
■憲法議論の推進を求める意見書の採択
― 昨年11月、全国に先駆けて日本会議関東議員連盟(以下、関東議連)が設立されました。
古賀◆
11月6日に衆議院議員の稲田朋美先生にお越しいただいて、関東議連を結成することが出来ました。現在、加盟議員は500名ほどです。各選挙区で勉強会を開催しながら、これを1千名にしていきたい、というのが、私たちの目標です。
― 勉強会とは、具体的には?
古賀◆
自民党の小選挙区ごとに、国会議員、それから都県議会議員、市区町村議会議員が参加して勉強会をします。憲法改正の問題を最優先に取り扱うことが出来れば一番良いのですが、それぞれの自治体の議会構成に任せて、柔軟にやっていければと思っています。その勉強会を経て、市区町村議会で「国会における憲法議論の推進と国民的議論の喚起を求める意見書」を採択していく、という流れを作っていきたいと考えています。
中屋◆
自民党本部からは、「憲法改正研修会」の開催要請が全衆院選挙区支部へ送付されています。つまり、各支部で憲法改正についての勉強会を開催しなさい、という通達ですね。この通達を受けて、しっかりと勉強会を開催している支部もあれば、そうでない支部もある。例えば、神奈川県の3つの選挙区では「未開催で予定もない」状況でした。そこで県の憲法改正推進委員会の委員長からそちらの支部宛に、「憲法改正研修会の開催についての要請」を行いました。それによってようやく勉強会開催への動きが出てきました。
― なるほど。党の通達と同時に都道府県連からも通達を出すことで、勉強会を着実に実施していくことが出来るわけですね。
古賀◆
現在、関東には8つの都府県がありますが、その全てで憲法改正についての意見書を提出し、採択されています。次は、市区町村単位でも意見書を提出できるよう、働きかけをしていくところです。現在、加盟している議員の多くは都県議会議員です。勉強会を開催しながら、市区町村議会の議員の先生方にもどんどん加盟していただいて、1千名のネットワークを目指し、憲法改正の機運を関東から高めていきたいという思いを持っています。
中屋◆
九州の話になりますが、福岡では市区町村で60議会がありますが、そのうち意見書は32議会ですでに採択されています。一方で12議会は全くの手付かずだそうです。これは何かというと、その12議会には日本会議地方議員連盟の加盟議員がいない、ということなのです。つまり、加盟議員を増やすということは、地方議会の意見書採択をできるかどうかに大きく関わっているんですね。もっと言えば、日本会議地方議員連盟が、今日の地方議会の憲法改正運動をリードしていると言っても過言ではありません。
古賀◆
昨年12月29日の毎日新聞に載った憲法改正についての世論調査によると、実に75%が憲法改正に賛成なんです。護憲勢力と言われる毎日新聞が調査してもこうなったわけです。この結果は、これまで憲法改正運動に取り組んできた我々にとっては大変励みになります。私個人の思いとしては、この憲法改正運動というのは、「宮澤憲法学」との戦いでもあると思っています。GHQの占領下で日本国憲法を押し付けられたわけですが、それを正当化するために、憲法学者、宮澤俊義氏が「八月革命説」なる奇想天外な邪説を唱え、マッカーサーに迎合しました。その宮澤憲法学の教え子たちが、今日、官界や学界、法曹界に入っている。ですから私はこの運動は、この宮澤憲法学を突き崩す運動だと思っているのです。
■国境離党、対馬を守れ
― 関東議連として今後はどのような問題に取り組む予定でしょうか?
古賀◆
私が今気がかりなのは、対馬の問題です。対馬が韓国人の旅行客に頼らない形で経済を立て直すにはどうすればよいのか、地域経済の自立も大切ですが、そもそもこれは国境管理の問題です。最近、対馬海峡には中国の海底調査団が来ているとも聞きます。中国はまず、日本人に対して、「日本はアジアを侵略した」「南京大虐殺を認めろ」などと思想侵略をしてきました。それから人口侵略。中国人旅行客のビザの緩和や入国条件の緩和をやりましたね。今、来日する外国人の中で最も多いのは中国人ですよ。最後が軍事侵略でしょうが、それももうそこまで来ているような気がします。「国境」と「国防線」は違う。普通、国境よりも外側に国防線を引くわけです。この国防線を超えられたら国境が危ないと。そのことを明治の政治家は分かっていました。だから満州にいたロシア軍を警戒して、朝鮮半島に国防線を引きました。国境が侵されて初めて戦うという専守防衛が如何に間違っているかということは、歴史に学べば明らかです。
― 対馬は、白村江や元寇など、歴史的にも国防の最前線であり続けました。
古賀◆
白村江の戦いの時には、天智天皇の下で、日本が国境警備を固めるとともに、百済に国防線を引きました。
― 対馬には、天智2年に対馬の防備を固めるために作られたと言われる金田城址がありますね。
古賀◆
今度5月に、地方議員連盟で対馬に行くツアーがあり、金田城にも行くようです。関東議連としてもここに参加したいと思っています。
中屋◆
そうですね。全国に先駆けて関東議連を設立したわけですから、モデルとなるような取り組みをしたいですし、それが全国に波及していくことを願っています。
※訃報 古賀俊昭先生には、3月9日、急逝されました。享年72。ご生前のご厚情に深く感謝し、謹んで哀悼の意を表します。
(令和2年1月23日インタビュー/『日本の息吹』令和2年4月号より)
中国の尖閣領有権の妄説を撃つ⑤ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第5回(最終回) 大明一統志「東のかた海岸に至る」
石井 望 ・長崎純心大学准教授
◆佐賀講演で新見解
明の勅撰地理書「大明一統志」には、福建各地の領土を「東のかた海岸に至る」と繰り返し規定してゐる。各地の官製地誌諸本も同じである。海岸の外の尖閣は領土外となる。あたり前の史料なのだが、尖閣論議の中で言及されたことは無かった。歴史研究者が尖閣を避けてきたからだ。
ところがチャイナ側は明の「籌海圖編」といふ海防書に載る「釣魚嶼」を以て、海防の管轄内だと主張する。手間のかからない主張だが、否定するにはその時代の諸史料を以て海防の到達地を逐一明らかにせねばならない。私はあれこれと史料を調べた結果、福建の海防圏は兵力最弱時に海岸まで、最強時でも沿岸列島線までと分かった。これぞ歴史的第一列島線である。尖閣は三百キロの彼方に在る。
「籌海圖編」は下半分に海岸の陣地を列し、上半分はただ島嶼を列する。上半分に陣地が無いのは海防外なるがゆゑであり、まさにその時代の海防線の内外を描いた書である。丁度チェス盤のやうなもので、敵地の最後方(上端)に尖閣があるに過ぎない。
以上の内容は昨年九月三十日に日本會議佐賀で講演し、十月五日佐賀新聞(印刷版)及び十月六日八重山日報(電子版あり)で報じられた。
◆尖閣でなく福建の領土問題
「釣魚島史料は悲劇だ、あまりにも悲劇だ。」香港などのインターネットに出沒する或るブログの達人が、そんな嘆きを投稿してゐる。なぜなら一つの例外を除き、釣魚嶼は全て隣邦との間の渉外的史料にばかり記載され、チャイナの内で自己完結する史料が無い。例へば第三囘で紹介した陳侃「使琉球録」以下、歴代使節の記録は全て隣邦琉球への渡航途中で釣魚嶼を記録する。第四囘で紹介した「順風相送」も、琉球航路の記載である。佐賀で話した「籌海圖編」も、隣邦日本から渡ってくる倭寇(但し中身はチャイナ人が九割)に備へる海防書である。後の清の「臺海使槎録」「重纂福建通志」などもまた「海防」の卷の末尾で釣魚臺を載せる。
清の後半になると「全臺圖説」「葛瑪蘭廳志」などタイワン島の地誌に釣魚臺が載るやうになる。チャイナ側はそれを以て行政域に編入したのだと主張する。ところがどの地誌の釣魚臺も「臺海使槎録」の抄録ばかりで、情報源は矢張り海防である。しかもそれが地誌中の領土外の部分に記載されてゐたといふ笑ひ話は、昨年十一月二十六日から十二月一日まで、八重山日報の連載「馬英九閣下…」をご一閲頂きたい(電子版あり)。
どれもこれも自己完結できないのは、隣邦との間の無主地なるが故である。そもそも帆船の時代に外洋を航行するには季節風を必要とした。福建から琉球へは夏に渡航し、琉球から福建へは季冬初春の間に渡航する。かりに釣魚列島まで領土内として自己完結したければ、夏に福建から航行し、列島東端の赤尾嶼(大正島)に至って半年間停泊し、冬の季節風を待って福建に戻らねばならない。絶海の無人島でそんなことは不可能且つ不必要であった。だから帆船時代には領土になり得ず、常に琉球航路の通過地に過ぎなかったのである。
ならば「籌海圖編」などの海防書に載ったのは何故か。佐賀で講演した通り、福建の海防域は大陸沿岸の列島線までで終る。海防外の釣魚嶼は、琉球航路書から取った情報か、もしくは陳侃のやうに琉球の水先人から得た情報と推測せざるを得ない。海防のため特別に赤尾嶼まで巡邏したといふのは、歴史を持たぬ今の彼らの張る虚勢に過ぎない。
逆に言へば、日本は尖閣の西方はるか彼方でチャイナが自己完結してゐた史料だけを論ずれば良く、そもそも尖閣を論ずべきでない。尖閣に領土問題が存在しないことは歴史が物語ってゐる。尖閣でなく福建の領土問題なのである。
◆孫崎享氏が高く評した史料
さて上述の唯一の例外とは、光緒十九年(西暦1893年)、西太后が大臣の盛宣懷に釣魚臺を下賜した慈諭(太后の諭告)である。隣邦と無縁であり、且つ日本が領有する直前なので、かなり有効に見える。昨年からマスコミに頻々と出る孫崎享氏も絶贊して曰く、
「文献は圧倒的に中国に属していたことを示している」と(平成二十三年、ちくま新書「日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土」、第六十四頁)。
ところが何のことは無い。慈諭中の官職「太常寺卿」に盛宣懷が就いたのは光緒二十二年(西暦1896年)なのである。慈諭の署する光緒十九年には、盛宣懷はまだ北京の高官ですらない。流石に近年はチャイナ側もこの贋品を公式主張に入れなくなった。
孫崎氏はきっと「瑣末事よりも本質が大切だ」などと反駁するだらうが、チャイナ側の歴史的主張は全て誤ってをり、本連載で述べたのは一端に過ぎない。日本領有までの長い歴史でチャイナはゼロなのだから、百を乘じてもゼロ、カイロ宣言を持ち出してもゼロ、極めて明朗に連載を終へることとしよう。
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いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
中国の尖閣領有権の妄説を撃つ④ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第4回 「オックスフォード写本で新事実 1403年に釣魚嶼なし」
石井 望・長崎純心大学准教授
◆六百年の大見得
先月紹介した「陳侃三喜」は、西暦1534年、釣魚列島(今の尖閣列島)の航路を琉球人が案内した最古の記録である。ところがチャイナ側の楊潔〓外相は、昨年のASEM(アジア・ヨーロッパ・ミーティング)の場で、世界の指導者らを前にして「釣魚列島を六百年前から管轄してゐる」と演説した。その夜のテレビで時の野田首相の慍色とともに、「六百年」の一語が茶の間に響き渡ったことを私は記憶してゐる。陳侃三喜よりも百年以上さかのぼる。
六百年の豪語がもとづくのは、「釣魚嶼」を記載する航路書「順風相送」である。序文に「永樂元年」(西暦1403年)、勅使として「西洋等」に往った時の航路だと書いてあるため、勅命により釣魚嶼を記録したのだとチャイナ側は主張し、公式見解にも入れてゐる。さあ日本、大丈夫か。
◆西洋針路簿になぜ尖閣が
ご心配には及ばない。序文の「西洋」の一語が全てを物語ってゐる。この頃の西洋とは、スマトラ島からインド方面への海路を指す。一方でジャワ・ボルネオ・フィリッピン・タイワン島・尖閣・琉球・日本は全て「東洋」と呼ばれた。西暦1403年には「東西洋」に往ったのでなく「西洋等」に往ったのだから、はるか東方の尖閣と無縁の話である。「等」といふのは東洋の南端のジャワ・ボルネオを通過したがゆゑに過ぎない。
この書は明の皇帝に仕へたイスラム教徒・鄭和(ていくゎ・ていわ、西暦1371至1433在世)が遠く「西洋」のイスラム諸邦の間に航した針路簿だとされる。福建で出航し、最遠ではホルムズ海峽まで記載してゐる。但しこの書が鄭和の原本だと確認できるわけではなく、後の時代に同類の書から採録したとするのが定説である。
鄭和は嘗て日本にも派遣されたとする史料が有り、東洋を知らなかったわけではない。しかし鄭和の日本行の史料は浙江省の寧波をめぐる記載ばかりであり、寧波から出航したとしか解し得ない。福建から出航する「順風相送」とは無縁である。
では「西洋等」針路簿に何故東洋の「釣魚嶼」が載ってゐるのか。それはこの書の前半の西洋等航路が終ると、後半は全て東洋航路であり、東洋の末尾近くで琉球及び「釣魚嶼」を記録するのである。
前述の序文の後、正文の針路簿の前までの間には、福建から西洋までの諸地名を列して水深などを記載するが、東洋の地名は列しない。また正文の西洋等部分では各地の島嶼附近の水深を百箇所以上も記載するが、東洋部分では二箇所しか記載せず、編纂基準が異なる。この書の原初形態では東洋部分が存在せず、後から附加されたのである。
◆東洋針路簿と合綴の痕跡
さらにここで新消息を披露しよう。「順風相送」は現在活字本で流布してゐるが、手書き原本はオックスフォードに在る。尖閣を早くから研究する奧原敏雄氏は、洋行した際に原書のマイクロフィルムを入手した。後にそのフィルムは、同じく早くから尖閣を研究する尾﨑重義氏の手をへて、島嶼資料センター(センター長は高井晉氏)に寄贈された。このたび諸先生のご厚意により、私も見せて頂いた。
フィルムの西洋等部分の末尾と東洋部分の開始とを今掲げておく。西洋等の末尾で紙を終へて、東洋部分は別紙で開始してゐる。活字流布本では別紙に分けてゐないので、前後が別物だとは氣づかないが、フィルムを見れば一目瞭然、別書を合綴した可能性が高まった。
かくして序文の西暦1403年は、東洋と無縁の年代であることが益々明瞭となった。では東洋部分はいつ成ったのか。明白な一徴としては、東洋の末尾に「長岐港に入る、佛郎番ここに在り」と書かれてゐる。長岐は長崎である。港は入り江である。佛郎番はポルトガル人である。この句については昭和六十年にもう論文が出てゐる。ポルトガル人は種子島の銃とともに初めて日本に到達し、長崎には西暦1570年頃に住み始めた。東洋部分が成ったのはこれ以後であり、但しやや早い内容を含んでゐる可能性は考へられる。
その頃の福建人の海路認識を確認しよう。西暦1534年に前述の陳侃が使節として渡航する際に、初めて琉球人から尖閣航路を教へられたことが、陳侃「使琉球録」及び鄭舜功「日本一鑑」(西暦1565年)に記録されてゐる。更に高澄「操舟記」(西暦1534年)によれば、福建の水夫たちは幾十もの海外諸邦に渡航したと誇りながら、誰も琉球航路に行ったことがなかったと言ふ。成程、そんな時代だから「順風相送」に西洋方面航路だけが載ってゐたのだな、と納得できる。尖閣琉球航路が載ったのはそれより後、西暦1500年代後半とするのが適切だらう。長崎港の年代とも符合する。
それだけでなく、「順風相送」の釣魚嶼は琉球人特有の北寄り航路であったことを、昨年私が見出し、「純心人文研究」に論文を掲載した。十一月九日の八重山日報インターネット版でも報じられたのでご覽頂きたい。
要するに六百年の主張は粗雜な虚構であるのみならず、琉球人に教はった航路を勝手に剽取したお目出たい話に過ぎなかったのである。
(つづく)
第5回(最終回) 大明一統志「東のかた海岸に至る」→
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13460
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いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
中国の尖閣領有権の妄説を撃つ③ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第3回 「尖閣480年史は「陳侃三喜」から始まった」
石井 望・長崎純心大学准教授
近代以前の遠い昔、琉球人は尖閣列島を熟知してゐた。最古の記録が明の『使琉球録』に載る「陳侃三喜)」である。
明の使節陳侃は、福州から出航の前年、未知の琉球への渡航を畏れてゐた。そこに琉球の朝貢貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだのが一喜。次に琉球から迎接船が入港したので、先導してもらへると喜んだのが二喜。次に迎接船が羅針盤役らを派遣して陳侃と同船させ、琉球までの操舵を申し出たのが三喜である。明くる嘉靖十三(西暦1534)年出航した使節船は、琉球の役人の操舵のもと陰暦五月十日に尖閣列島の「釣魚嶼」(魚釣島)を通過する。尖閣は最初から琉球王が公式に外邦の客を導く航路として記録された。
この日から尖閣は有史の時代に這入る。歴代史料では尖閣の西にチャイナの界線が記録され、同じく東に琉球の界線が記録される。二つの界線の間の尖閣列島は、東西どちらから見ても外側の無主地であった。無主地ながら、琉球人が針路を司る航路上の要地でもあった。海洋的琉球文化圏だったことは明白である。しかしチャイナ側はつねに陳侃が釣魚嶼を記録したことだけを強調して、琉球人が針路を司ったことを無視しつづけてゐる。
明治二十八(西暦1895)年一月十四日、日本は尖閣を領土に編入した。石垣市がこれを「尖閣諸島開拓の日」に定めたのは多とするに足る。しかし四百八十年になんなんとする尖閣史上では、最古の五月十日も忘れてはならない。この大切な歴史を世間では話題にせず、逆にチャイナ側の虚構に利用されてゐる現状は憂慮に値する。
日本の保守論壇には、明治以前の漢文史料で我が方が不利だとの誤解が有る。しかし原文をよくみれば、チャイナ側主張は全て虚構に過ぎない。要注意の一つは「釣魚嶼」といふ漢文名である。所謂チャイナ名ではない。命名者の記録は無いが、最初に琉球人の案内のもとで島名が記録された以上、琉球人が命名した可能性が高い。今これをチャイナ名と呼ぶのは、琉球の先人の功績をなみすることに外ならない。
漢文は東アジア共通の文語であって、西洋のラテン語と同じである。ラテン語をイタリア語と呼ばないのと同じやうに、古代から漢文を書いてゐた日本人は、チャイナ語を書かなかった。漢文名をチャイナ名と呼ぶことは、尖閣史のみならず日本史及びその一部としての琉球史を否定するに等しい。日本は領土編入とともに尖閣といふ現代名を定めたが、チャイナは尖閣を領有しなかったから命名もしてゐない。
◆歴史こそ最後の決め手
尖閣漢文研究について、世間では「どうせチャイナは侵犯をやめないか
ら、歴史で勝っても無駄だ」とか「細かなことよりも大局を論ずべきだ」などと冷ややかに評する人が多い。事の重大性を理解しない評である。
平成二十二年の冬頃、漁船衝突事件からしばらく後に、チャイナ側がしばし息をひそめて沈黙したことをご記憶だらうか。原因は、稀土類禁輸やフジタ社員監禁などの横暴を世界が支持しなかったからである。日本側に世界の同情が集まり、保守論壇には「我々は負けて勝った」との評も出た。同情を失って焦るチャイナの顔色を見て、香港の保釣運動家までも出航を見合はせたことが、現地で小さく報道された。
ところが昨年後半から、世界(特に西洋)の同情はチャイナに集まってゐると聞く。歴史上で尖閣を支配したチャイナと、現代公法の論理に固執する日本。そんな誤った形象が西洋の論壇にひろまったことが原因らしい。日本政府が尖閣を購入したことが原因ではない。
いま歴史が勝負を左右しようとしてゐる。歴史の虚構が逐一曝露されて世界の同情を失なへば、チャイナは焦って再び沈黙するだらう。彼らの横暴をやめさせるには、尖閣四百八十年史の正義を明らかにするのが最善手であり、急がないと日本は負ける。
◆琉球を主人とする記念式典の開催を
きたる平成二十六年は尖閣有史四百八十周年の記念すべき年である。那覇や石垣などで記念式典を行なふことを提言したい。そこには四つの意義がある。第一に、尖閣古史は文化的に琉球のものだと世界に宣言すること。第二に、最初に記録された釣魚嶼がチャイナ名ではないと世界に知らしめること。第三に、歴史で日本が不利だとの印象を一掃すること。第四に、尖閣を政治的色彩から脱せしめ、誰にとってもあたり前の歴史とすること。
陰暦五月十日は陽暦上で毎年不定期となる。行政上の都合も有らうから、陽暦五月十日で記念するのも次善策だらう。毎年が難しければ、四百八十周年の一度だけでも良い。
但し記念日の前提として歴史に忠なるを要する。「日中友好」などを合言葉に記念日を無原則に利用する陰謀には警戒せねばならない。記念日名としては「尖閣三喜記念日」もしくは「釣魚嶼みちびきの日」を提案したい。制定主旨には「無主地にして琉球文化圏だった」と明記することが必須である。この原則を貫徹しないと、チャイナ側の勢力が記念行事に滲透してくることとならう。それどころか、チャイナ側に先に記念日とされて仕舞ふ虞れもある。善は急げ。地元を中心としてみんなで考へたい。(つづく)
第4回 「オックスフォード写本で新事実 1403年に釣魚嶼なし」
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13455
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いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。