(敬称略)
阿比留瑠比 | 産経新聞論説委員兼政治部編集委員 | 有馬哲夫 | 早稲田大学教授 |
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いしゐのぞむ | 長崎純心大學准教授 | 伊勢雅臣 | 公益社団法人国民文化研究会理事・筑波大学日本語日本文化学類非常勤講師 |
伊藤哲夫 | 日本政策研究センター代表 | 伊藤俊幸 | 元海将・金沢工業大学大学院・(虎ノ門キャンパス)教授 |
井上和彦 | ジャーナリスト | 潮匡人 | 評論家 |
于田ケリム | 日本ウイグル協会会長 | 打田文博 | 神道政治連盟会長 |
宇都宮秀仁 | 日本会議経済人同志会副会長・株式会社日華代表取締役会長 | 江崎道朗 | 評論家 |
王明理 | 台湾独立建国聯盟日本本部元委員長 | 大原康男 | 國學院大學名誉教授 |
岡野英夫 | 宗教法人解脱会理事長 | 小川榮太郎 | 文芸評論家 |
桶屋良祐 | 念法眞教燈主 | 呉善花 | 東京国際大学教授・評論家 |
小名木善行 | 国史啓蒙家 | 織田邦男 | 元空将・麗澤大学特別教授 |
加地邦雄 | 日本会議九州地方議員連盟会長(福岡県議) | 鍛冶俊樹 | 軍事ジャーナリスト |
勝岡寛次 | 麗澤大学国際問題研究センター客員教授 | 桂由美 | 一般社団法人全日本ブライダル協会会長 |
上島嘉郎 | ジャーナリスト | 河野克俊 | 前統合幕僚長 |
北野幸伯 | 国際問題アナリスト | 北林康司 | 日本会議東北地方議員連盟会長(秋田県議) |
北村淳 | 軍事社会学者 | 北康利 | 作家 |
金美齢 | 評論家 | 工藤美代子 | ノンフィクション作家 |
グレンコ・アンドリー | 国際政治学者 | ケント・ギルバート | カリフォルニア州弁護士 |
黄文雄 | 文明学者・評論家 | 後藤俊彦 | 高千穂神社宮司 |
小堀桂一郎 | 東京大学名誉教授 | 古森義久 | ジャーナリスト |
小柳志乃夫 | 公益社団法人国民文化研究会理事長 | 近藤永太郎 | 日本会議近畿地方議員連盟会長(京都府議) |
榊原智 | 産経新聞論説委員長 | 櫻井よしこ | 公益財団法人国家基本問題研究所理事長 |
桜林美佐 | 防衛問題研究家 | 佐波優子 | 戦後問題ジャーナリスト |
執行草舟 | 著述家・実業家 | 島田洋一 | 福井県立大学教授 |
志摩淑子 | 日本女性の会会長 | 清水ともみ | 漫画家 |
白駒妃登美 | 株式会社ことほぎ代表取締役 | 新保祐司 | 文芸批評家 |
石平 | 評論家 | 施 光恒 | 九州大学教授 |
田尾憲男 | 神道政治連盟首席政策委員 | 髙橋史朗 | 麗澤大学客員教授・モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所教授 |
高山正之 | コラムニスト | 田久保忠衛 | 日本会議会長・杏林大学名誉教授 |
竹内久美子 | 動物行動学研究家・エッセイスト | 竹田恒泰 | 作家 |
竹中俊裕 | イラストレーター | 竹本忠雄 | 筑波大学名誉教授 |
田中恆清 | 神社本庁総長 | 田中秀雄 | 歴史家 |
寺島泰三 | 英霊にこたえる会会長 | 西岡力 | 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)会長 |
西 修 | 駒澤大学名誉教授 | 西村幸祐 | 批評家 |
野伏翔 | 映画監督・演出家 | 長谷川三千子 | 埼玉大学名誉教授 |
長谷川幸洋 | ジャーナリスト | 濱田浩一郎 | 歴史家・評論家 |
浜畑賢吉 | 俳優・大阪芸術大学教授 | 平川祐弘 | 東大名誉教授(比較文化史) ※「祐」の字は、正しくは(しめすへん)が「示」 |
平田隆太郎 | 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)事務局長 | 藤島博文 | 日本画生・日本美術展(日展)会員 |
ペマ・ギャルポ | 拓殖大学客員教授・岐阜女子大学名誉教授 | 保積秀胤 | 大和教団教主 |
松井嘉和 | 大阪国際大学名誉教授 | 松浦光修 | 皇學館大学教授 |
松尾新吾 | 一般社団法人九州経済連合会名誉会長 | 松木國俊 | 朝鮮近現代史研究所所長 |
松田良昭 | 日本会議地方議員連盟会長(神奈川県議) | マンリオカデロ | サンマリノ共和国特命全権大使駐日外交団長 |
水落敏栄 | 一般財団法人日本遺族会会長 | 宮家邦彦 | キヤノングローバル戦略研究所研究主幹 |
宮崎正弘 | 評論家 | モーガン・ジェイソン | 麗澤大学准教授 |
百地章 | 国士舘大学客員教授 | 八木秀次 | 麗澤大学教授 |
安本寿久 | 産経新聞特別記者編集委員 | 山岡鉄秀 | 情報戦略アナリスト・令和専攻塾塾頭 |
山田吉彦 | 東海大学教授 | 山村明義 | 作家・ジャーナリスト |
屋山太郎 | 政治評論家 | 横倉義武 | 日本医師会名誉会長 |
横田拓也 | 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)代表 | 吉田好克 | 日本会議宮崎顧問 |
若井勲夫 | 日本教師会会長 | 渡辺利夫 | 拓殖大学顧問 |
阿比留瑠比 産経新聞論説委員兼政治部編集委員
小泉純一郎政権の後半に、産経新聞が運営していたサイト「イザ!」の記者ブログに「小泉さんは安倍さん(晋三元首相)の前座だと思う」と書いたことがある。当時はまだ小泉氏の人気も評価も高かった頃で、ほとんど反響はなかったが、間近で見ていた安倍氏は、それだけ他の政治家とは一頭地を抜く存在だった。
その安倍氏が持病の難病、潰瘍性大腸炎の悪化で第一次政権を退き、やがて悪夢の民主党政権が誕生した。そして、史上最低といわれた鳩山由紀夫、史上最悪と評された菅直人両元首相といずれも短命の政権を終え、野田佳彦元首相が政権を担っていた頃である。
当時、私は経団連のベテラン職員と定期的に会い、意見交換をしていた。あるとき、職員から「一番期待する政治家は誰か」と問われたので安倍氏の名前を挙げると、相手はそんなバカなと言わんばかりの冷たい反応だった。世間の評価は厳しいものがあった。
実際、平成二十四年九月の再起をかけた自民党総裁選でも、当初は六人の候補の中で「三番手か四番手」だとみられていた。
だが、安倍氏は「再チャレンジ」を自ら実践してみせる。完治しない難病を患い、いったんは政権を手放してひ弱なおぼっちゃんと嘲笑されながら、日本の首相に再び上り詰め、憲政史上最長の政権を打ち立てた。失敗しても立ち上がれると示し、どれだけの苦しむ人々を励ましたことか。
奇跡のような人だったと思う。
有馬哲夫 早稲田大学教授
安倍晋三氏は本当に亡くなったのだろうか。なんかの拍子に、「やあ、元気でしたか」と、あの笑顔でどこからかひょっこり出てきそうな気がする。テレビでは今でも毎日、安倍氏のこぶしを握り締めて演説する姿や外国の要人とにこやかに話す姿が流れる。もういなくなったのだという実感がない。
地下鉄大門の駅から増上寺まで続いた様々な服装をした老若男女の弔問客の中に私もいた。地方から来たという人も多かった。みなうつむいて涙を浮かべていた。マスコミはいつも叩いていたが、安倍氏はこんなにも一般国民に慕われていた。私たちの晋三だった。
野党とマスコミと戦いつつ、憲政史上最長の八年八カ月総理大臣を務めた。毎日、毎日、親や子供の顔を見ない日はあっても、晋三の顔を見ない日はなかった。あの手振り、あの言葉、あの顔。晋三はいつも私たちのそばにいた。日本を一緒に取り戻そうといい続けていた。ああ、晋三は今日も元気だ、頑張っている。じゃ、私たちもなにかしなくては。そんな毎日だった。野党がなんといおうと、マスコミがなんといおうと、晋三と私たち一般国民の心は通い合っていた。
私たちは、どこへいけば彼と再び会えるだろう。いや、彼はどこへもいってはいない。ただ、目を閉じればいい。彼はいつもそこにいる。彼の声、仕草、笑顔を思い出しさえすればいい。晋三は、いつまでも、いつまでも、私たちの心の中で、生き続けていく。
いしゐのぞむ 長崎純心大學准教授
故安倍元首相の功績のうち、尖閣歴史戦について語る人は少ない。
野田内閣の時、チャイナ楊潔●外相はASEM(アジア歐洲會議)の席上で「尖閣を六百年間管轄してゐる」と豪語し、その映像がテレビで日本の茶の間を驚かせた。私の危惧が現實となり、チャイナのウソ宣傳が成功した瞬間であった。この席で野田首相は全く反駁できなかったが、そもそも日本政府は史料を無視してゐるのだから反駁できない。
怒った安倍氏は第二次安倍内閣で内閣官房に領土室を設置し、尖閣歴史戦を開始した。私は領土室委託事業の特別研究員となり、六百年は單なるウソであることを委員會などで繰り返し述べる機會を得た。安倍氏のお蔭である。
六百年と稱する航路簿『順風相送』には、ポルトガル人による長崎開港(西暦十六世紀後半)等が言及されてゐるため四百年に過ぎず、且つ正卷イスラム航法と、附卷東洋航法とに分かれ、尖閣は附卷に附記された別情報である(『日本の息吹』平成二十五年七月號)。
その半世紀前の尖閣最古の陳侃『使琉球録』は琉球に關する書であるから、尖閣は最初から琉球附屬島嶼であり、後の『順風相送』は琉球附屬の派生史料である。更に最近私はそこから驚くべき新事實を掘り出したが別の機會に讓らう。
ところが領土室附設の虎ノ門展示館では、西暦十五世紀からチャイナ史料があるとして六百年のウソを受け容れてゐる。安倍氏の遺志は役人の前に無力であることを嘆かざるを得ない。(正仮名遣は原文のまま)
伊勢雅臣 公益社団法人国民文化研究会理事・筑波大学日本語日本文化学類非常勤講師
安倍元総理のご遺志の一つとして受け継ぎたいと考えているのは、「教育再生」です。平成十八年、第一次安倍政権のもとで教育基本法がおよそ六十年ぶりに改定されました。山谷えり子総理大臣補佐官(教育再生担当、当時)を中心として、「戦後五大長時間審議」の一つと言われるほど長い審議を重ねて成立しました。
《個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。》(改正教育基本法・前文より、傍線伊勢)
傍線部は、占領下の昭和22年に制定された旧教育基本法から大きく変わった点です。「公共の精神」とは国家共同体の中での横糸であり、「伝統の継承」は先人から受け継がれた縦糸です。我々はこの縦糸、横糸によって生かされているのであり、そのような国民として育てられなければならない、という深い人間観が窺われます。
これに沿って、歴史教育の学習指導要領も「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」を目標とするなど、正常化が進みました。
しかし、この教育再生の流れは、偏向した歴史教科書によって、いまだ堰き止められています。この流れを受け継いで、教育再生を完遂し、我が国のこどもたちが活き活きと成長できるようにすることが、安倍元総理のご遺志を果たす道だと考えています。
伊藤哲夫 日本政策研究センター代表
安倍元総理は日本再生への希望の星でした。しかし、その元総理はもはやいない。恐らく日本中の心ある人々が、今もその衝撃から脱け出せないでいるに違いありません。
私が安倍元総理と初めてお会いしたのは二十七年ほど前のこと。今もその時のことを思い出すのですが、いかにも品の良い細面の外見に似ず、日本再生に向けた強い意志と覚悟が印象的でした。その後、元総理は中川昭一氏や衛藤晟一氏とともに「日本の歴史教育と若手議員の会」を設立し、歴史認識の戦いに立ち上がっていくのですが、それが元総理にとっての、最初の本格的な戦いの場となったように思います。その頃中川氏が年長であるにもかかわらず、「自分はいつか安倍ちゃんを総理にするんだ」と、楽しそうに話していたのを忘れることはできません。
この戦いは、まさに朝日新聞との戦いでもありましたが、他方、歴史といえば反省と謝罪で思考停止となっていた自民党主流との戦いでもありました。兼原信克氏のいう「敗戦、冷戦、高度成長の途中で時計が止まってしまった古い日本」に他なりません。しかし、この戦いは冷飯覚悟の若手の戦いだったにもかかわらず、いつの間にか元総理を党の中心に押し上げる力ともなっていきました。
もはや安倍元総理のいない日本。しかし、元総理のこの「戦い」を瞼に強く焼き付けた若者の中から、必ずや新たな戦いの芽が出てくる、というのが実は私の確信です。一日も早いその日を信じ、私も頑張る覚悟です。
伊藤俊幸 元海将・金沢工業大学大学院・(虎ノ門キャンパス)教授
安倍晋三元首相がご逝去されました。
安倍元首相は、内閣総理大臣が「自衛隊の最高指揮官」であることをよく理解され、それにふさわしく行動された首相でした。防衛庁を省に昇格してくださったことも感激しましたが、陸海空自衛隊の部隊指揮官が官邸で行う就任・離任時の総理挨拶においても、親しく言葉をかけていただきました。また、自衛隊記念日や防衛大学校卒業式などの訓示でも、現場の自衛官の名前や行動を例示し、ご自分の言葉で話されました。
一方、国会では書類をほとんど見ずに答弁されたように、国家安全保障戦略や防衛政策、特にその法理論について、国会議員としては一番熟知されていました。「軍隊ではない」といわれながらも、世界で十分通用する実力を自衛隊は持つようになりました。その自衛隊が有事やグレーゾーン事態において、適切に働くためには立法措置が必要であるとして、議員として一連の安保法案に関与されてきたのです。そして首相当時の集団的自衛権行使を容認する「安全保障関連法」は、内閣支持率が下がることを覚悟の上で決断されました。
また、憲法改正として「自衛隊明記」論を安倍元首相は提示されました。本来なら9条全てを改正し、独自の条文にすべきでしょう。しかし安倍元首相は、いまだに「自衛隊違憲論」があることに「終止符を打つ」との強い決意を持っておられ、ある意味「自衛官の気持ちに寄り添った提案」だったともいえましょう。
元自衛官として御礼申し上げるとともに、ご冥福をお祈りいたします。
井上和彦 ジャーナリスト
あの日私は、筆舌に尽くしがたい悲しみと喪失感、そして日本の将来に対する不安に襲われた。安倍晋三という不世出のリーダーを失い、これから先、日本はどうなってゆくのだろうかと。
安倍元総理の数ある偉業の中で私が最も注目したのが、世界を俯瞰で捉えた優れた安全保障感覚と積極的平和主義に基づくその外交姿勢だった。
厄介な近隣国の威嚇や難癖をものともせず、安倍元総理は国益を見据えた堂々たる外交を展開し、世界のリーダー達を頷かせ、そして導いた。
いわゆる安倍外交は、本来あるべき歴史認識に裏打ちされた国家観に基づいて堂々と展開されたことだった。
世界の名だたる指導者を相手に、威風堂々と渡り合ったあの姿が思い出される。日米同盟を堅固なものにし、米豪印との結束のみならず、安全保障分野における英国との関係を深化させた。さらに本来の友たる台湾に手を差し伸べたことなどは、後世の歴史家からも高く評価されよう。
かつて私が正論新風賞を受賞したとき、その表彰式で安倍総理から真心のこもったビデオメッセージをいただいた。そこに込められた国の護りとその実践者たる自衛隊への思いが忘れられない。私はこのときの心温まるメッセージと幾度か直接いただいたご声援を胸に、これからも日本を取り戻すべく頑張ってゆきたいと決意をあらたにしている。
今は亡き大宰相安倍晋三の御遺志を実現させることは恩返しであると同時に、将来の日本人へのなによりの贈り物となろう。
潮匡人 評論家
最初にお目にかかったのは、安倍晋三・内閣官房長官の時代だった。保守系の勉強会に講師としてお招きしたところ、快諾いただいた。私は会の幹事を務めていたが、人気講師ゆえ、当日は大盛況。おそらく安倍さんの記憶に、当夜の私は欠片もあるまい。
平成二十四年九月十九日、永田町で開催された「安倍晋三決起集会」の壇上、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」発起人として応援演説した私と握手を交わしたのが、二度目にして最後の機会となった。
じつは同年三月に、私が島根県益田市の小中学校で「曽祖父兄弟の話」をした旨、SNSに投稿したところ、安倍さんが「我が山口県のお隣ですね。先日おじゃましました。」と投稿くださった。最近も「貴兄のご見識いつも敬服しています。これからも宜しくお願いします。」とのメッセージを頂戴した。総理在任中も、憲法への「自衛隊」明記案をめぐり。間接的に謝意を伝えられていた。
「決裁文書の書換えは許されない」、「安保法制は中途半端だ」等々、私は安倍政権を厳しく批判した。ときに”正論”は、ひとを傷つける。安倍さんには悪いことをした。
それでも、たった二度しか御本人に会ったことがない私にまで、こうした心遣いをかけたひとだった。
いつか、きちんとお話できる機会もあるだろうと思っていたが、叶わぬ夢となった。
公私ともに、悲しく、悔しい。
于田ケリム 日本ウイグル協会会長
安倍晋三元総理が、暴漢の銃弾により命を奪われました。
私たち日本ウイグル協会は、世界中のウイグル人に代わって、深い哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈りいたします。
安倍先生は、日本国のために最善を尽くした偉大な政治家であると同時に、ウイグル問題の改善に尽力してくださった心ある政治家でもありました。私たちウイグル人の心の支えであった大事な存在がこのような形で命を奪われたことには耳を疑い、言葉も出ません。
報道を受け、世界中のウイグル人が深い悲しみに覆われ、各国にある日本大使館で弔問記帳・供花をしたりして追悼の意を示しています。私たち在日ウイグル人も、銃撃現場や増上寺を訪れましたが、笑顔で元気ないつもの安倍先生の姿を想い起し、悔しい思いが募りました。本当に無念です。
安倍先生は、世界の首脳の中でも、「ウイグル人が自由で平和な日常を送るべきで、その実現のためにできる限りのことをする」との信念を持ち続けたリーダーでした。「日本ウイグル国会議員連盟」の設立、首脳会談や国連等の国際舞台でウイグル問題を発信し続けたこともその信念と意志の証として歴史に残ることでしょう。とくに東大大学院に留学中、一時帰国した中国で拘束されたトフテイ・トゥニヤズさんの解放を胡錦濤主席に直接訴えられたことは忘れがたいものがあります。
ウイグル人の苦しみに寄り添う本物の政治家として歴史に名を刻まれた安倍先生は、私たちウイグル人の心の中で生き続けます。
打田文博 神道政治連盟会長
安倍晋三元首相の御逝去を悼み、謹んで哀悼の意を表します。
安倍元首相は、通算約八年八か月の首相在任中、「戦後レジームからの脱却」をスローガンに、困難な課題に果敢に取り組まれ、この国の歩むべき道筋をお示しくださいました。また、長い間神道政治連盟国会議員懇談会の会長をお務め戴き、その卓越したリーダーシップと実行力で私たち日本国民をお導き戴きましたことに深甚なる感謝の誠を捧げます。
この間、憲法改正議論の促進をはじめ、国民投票法の制定や教育基本法の改正、激変する安全保障環境を見据えた外交・防衛政策、アベノミクスに代表される経済改革などの政策を決断実行され、天皇の御譲位に伴う御代替りを完遂されるともに、戦後初となる神宮式年遷宮への御参列や首相の靖國神社参拝の実現、さらに家族の絆を大切にする政策など、確固たる信念と覚悟をもって日本と日本の国柄を守る活動に心魂を傾けて戴きました。
突然の訃報に、悲しみをかみしめるばかりです。私たちは、安倍元首相が生涯を通じ「美しい国」の実現に向け、また国際社会のリーダーとして全力を尽くされた輝かしい御功績を偲び、その御遺志を受け継ぎ今後の国民運動に邁進して参ります。
これまでの御指導の数々にあらためて感謝の意を捧げますとともに、永久の御別れに際し、安倍晋三会長の御霊の安らかならんことを慎みてお祈り申し上げます。
宇都宮秀仁 日本会議経済人同志会副会長・株式会社日華代表取締役会長
ここに謹みて、元内閣総理大臣安倍晋三先生の御霊に衷心より哀悼の意を表します。
令和4年7月8日昼に安倍晋三元総理が参議院選挙の街頭での選挙応援演説中に銃撃され、同日午後に御逝去されたとの衝撃的報道に接し、親を亡くした時以来の強い衝撃と深い悲しみが身体を駆け巡り、我が身が氷のように冷たくなり呆然とし、すぐに情報収集を始めました。何らかの誤報ではないか?しかし、残念ながら関係者からの連絡は正式発表前に悲しい現実となりました。
我々の長年の悲願である自主憲法制定、憲法改正の旗頭であった安倍晋三先生を失い、あれからの日々は毎朝悪夢を見たような不快感が襲い、残念と無念さで押し潰されんばかりです。今日の日本において安倍元総理ほど政治理念、国家観が確立された言動と行動がブレない政治家がおられたでしょうか。
世界情勢を考えれば正に、日本の国家的損失であり、さらには世界の損失である。安倍晋三元総理におかれましては、日本憲政史上最長の三一八八日もの長きにわたり日本国の舵取りに力尽して頂き、国民の一人として、衷心より感謝申し上げます。偉大な民主主義者であり、多国間の世界秩序を守ろうと各国首脳と会談を重ね、これほど信頼関係を構築された日本の最高指導者はおりません。残された我々はこれから誇りある日本、世界から当てにされる日本を取り戻す為に皆さんと知恵を出し、力を合わせて専心努力してまいります。
どうぞ、この日本の未来と安命に天上から御加勢ください。
最後に御皇室の更なる弥栄と未来永劫の穏やかで平和な日本国が続く事を祈り、改めて安倍晋三元総理の御冥福を心よりお祈り致します。
江崎道朗 評論家
安倍晋三元首相の凄さは、対外政策と内政、特に金融・経済政策を連動させたことだ。
第二次安倍政権は、国家安全保障会議を創設し、外交、インテリジェンス、軍事、経済を統合した国家安全保障戦略を戦後初めて策定した。中国の台頭に対応するためには外交だけでなく、インテリジェンス、軍事、経済を総動員して対策を講じる必要があるからだ。具体的には集団的自衛権の解釈変更に踏み切り、特定秘密保護法を制定してインテリジェンス分野でも日米同盟を拡充させていくと共に「自由で開かれたインド太平洋構想」を推進した。
とはいえ、思い切った国家戦略を推進するためには国民の支持が必要だ。そして国民の支持獲得のために必要なのは経済、デフレ対策だった。
そもそも日本が中国と同じように経済成長を続けていれば中国にこれほど後れをとることもなかったはずなのだ。それに落ち目の国は国際社会では相手にされない。経済を成長させなければ、米国はもとより、インドもオーストラリアもASEAN諸国も日本の戦略に呼応してくれるわけがない。そこでデフレ脱却を最優先課題に据え、日本銀行による金融緩和に踏み切ったわけだ。
明治政府は富国強兵、国を豊かにしてこそ強い軍事力を持てることを知っていた。
同じく経済こそ国力の基盤であることを理解し、アベノミクスを推進しつつ対外戦略に取り組んだ安倍元首相は本当に偉大であった。
王明理 台湾独立建国聯盟日本本部元委員長
安倍晋三元総理の突然の訃報、失われたものの大きさに愕然とし悲しみは癒えません。
何度かお会いしたことがありますが、くつろいだ場ではユーモラスで人を笑わせることが好きな方でした。
安倍先生は、台湾が地政学的に重要であり、日本の安全保障上の要点であることにいち早く気づき、アメリカや関係国を巻き込んでクワッドやTPP11(CPTPP)などの枠組みを作りました。中国に遠慮ばかりしてきた日本や国際世論の目を開かせた功績は多大なものがあります。
それと同時に台湾人に対して温かな想いや同情を持っている方だったのです。李登輝総統を父のように慕っていた安倍先生は、台湾人の悲哀や難しい立場を理解し、泉裕泰日本台湾交流協会台北事務所事務所長(駐台湾大使)が台湾へ赴任する前には「日本と台湾は特別な歴史的関係がある。台湾の人たちの気持ちに気を配り、彼らに寂しい思いをさせないようにしてほしい」と話されたそうです。
安倍元総理の突然の訃報を知って、蔡英文総統は心からの惜別の辞を発表し、頼清徳副総統はすぐに訪日し安倍家を弔問しました。民間では在りし日の安倍先生の姿を追う動画がいくつもSNSに投稿され、日本に住む私たちにも送られてきました。7月11日には台湾全土の公的機関と学校で半旗が掲げられましたが、逆に「日本ではやらないのか」と台湾の友人に訊かれ答えに窮してしまいました。
「台湾を守ることは日本を守ること」と喝破された安倍先生、どうか天国から見守っていてください。
大原康男 國學院大學名誉教授
今から二十七年も昔、平成七年(一九九五)は大東亜戦争終結から五十年という大きな節目の年であることから、その前年の六月に成立した村山富市内閣(自民・社会・さきがけ三党連立)で合意された「過去の戦争を反省し、未来の平和への決意を表明する国会決議」の内容をめぐる激しい論議が国会内外で交わされていた。
当時の自民党執行部は連立政権を守ることに汲々としていて、保守系の民間団体が集めた五〇六万人を超える圧倒的多数の反対署名を無視し、秘密裡に他の二党と折衝、彼らが求める一方的な、”反省・謝罪決議”(賛同者署名は三一万人にとどまる)に同意し、衆議院で可決してしまったのである。
この暴挙に対して私を含む民間側関係者は激怒、責任者である加藤紘一政調会長を取り囲んで猛烈に抗議したものの、まさに「覆水盆に返らず」であった。午前零時過ぎ、憤りを抑えることができぬまま国会議事堂の門を出ようとした時、二人の国会議員が待ち受けていた。その一人が安倍晋三衆議院議員だったのである。
安倍議員曰く「あなたの言われたことはすべて同感です。今後ともよろしくご指導下さい」と。安倍さんはその二年前の総選挙で初当選したばかりの一年生議員。さわやかで明晰な言葉遣いが印象的だった。
それから二十七年が経過した今日――我が国憲政史上最長の総理経験者となり、”戦後レジーム”からの脱却を目指してまだまだ第一線で活躍されるものと願っていたのに……。
岡野英夫 宗教法人解脱会理事長
安倍晋三先生の死を悼み、心から哀悼の意を表します。不世出の大政治家であられた安倍晋三元総理が、信じがたい暴挙によってご逝去なされたことは、深い悲しみであり無念の極みであります。
気品に溢れ、世界の首脳に対するも決して引けを取らない堂々とした外交姿勢を拝見するたびに、日本人として誇らしく感じたものでした。その反面、講演会や集会では大政治家とは思えないほど誰にでも気さくにお話になられ、丁寧に対応してくださる細やかな心遣いに驚かされたものでした。
国際社会での優れた指導者としての高い評価とゆるぎない信頼関係を構築された高潔なお人柄は、まさに瞠目に値するものでありました。新時代を迎える日本外交の光明であり、希望でありましたのに、返す返すも残念でなりません。
先生は、素晴らしい祖国である日本を愛し、崇高な日本精神を堅持し「真の日本を取り戻す」ことを念願とされ、卓越した洞察力と指導力で日本の将来を見据え国民を導いてこられました。その功績は偉大でありました。
先生のご遺志を継承し、不退転の覚悟で麗しい日本の未来をつくりあげるために弛まない努力をしていくことが、先生のご恩に報いる唯一の道であると肝に銘じる次第であります。先生の御霊の安からんことをご祈念申し上げ追悼の言葉といたします。
小川榮太郎 文芸評論家
安倍晋三は傑出した政治家というよりも、現代日本というガラパゴスにあって、存在そのものが総合安全保障であり、一人でシンクタンク機能を果していた。
この事実の重さを体に直接来る痛覚として知る者は殆どいない。
もし仮に二度の安倍政権がなければ、防衛省は防衛庁のまま、憲法改正国民投票法なく、国語、道徳教育の充実もなかった。日本版NSCも集団的自衛権もなく、日米豪印の集団安全保障の進展もなかった。株価は8000円台を低迷したままだったろう。
もし奇跡の復活によって第二次安倍政権が成立していなければ、鳩山由紀夫政権→菅直人政権→野田佳彦政権→石原伸晃政権→石破茂政権と続き、橋下徹政権や小泉進次郎政権、小池百合子政権もあり得ただろう。日本は完全に陥没していた。十年は国家が没落するには充分過ぎる年月である。
はっきり書いておきたい。この辺りが今の日本人の実力相応な所なのである。
安倍政権の間中、私は繰り返し説き続けた。
「安倍氏は日本に下駄を履かせてくれているだけだ。今の内に、我々が死力を尽くして安倍氏の手の届かない内政課題やマスコミ、アカデミズムの暴走に対処しないと、安倍後が大変な事になる。」
この言葉を心身の全重量を掛けて理解・行動してくれる人はいなかった。
安倍氏の突如の不在の後、日本はどこまで堕ち続けて、それに気付く事になるのだろうか。
歴史は愚者には残酷な裁定をする。
例外はない。
桶屋良祐 念法眞教燈主
安倍晋三元総理大臣閣下の突然のご逝去の報に接し痛惜の情に堪えません。ここに念法眞教教団を代表し謹んで哀悼の意を捧げます。
ご生前にお会いした折の閣下は、いつも私心なく、常に世界の中の日本国の生きるべき道を正しく考えられ、今もその時の閣下の声が耳に響いております。日本国のため身骨を砕いて勤めて来られました。そのことは第一次・第二次内閣を通して、これまでの憲政史上にない長く安定した政権となったことに現れています。国内では教育、経済の問題に取り組まれ、国外では粘り強い外交で各国の信頼を得、私達国民は、日本の国の素晴らしさを改めて知るに至りました。
とりわけ国防問題では防衛庁を防衛省にされるなど、「国の守り」に尽力されました。「国の守り」の大切さは私方教団の開祖親先生が常に説かれたことであり、閣下はまさにその思いを体現された方でいらっしゃいました。閣下のお考えは、私方教団が立教九十年を迎えました際に発行した記念誌『あたたかい心につつまれて』に閣下から頂戴した玉稿にも示されています。「『日本再生』と『住みよい世の中』づくり」と題され、閣下のご施策が「住みよい世の中」づくりに努める私方教団の活動と「軌を一にするもの」と記して下さっています。
真に国を愛し、国民を愛し、そのご生涯を日本のために捧げられた、稀有の政治家でいらっしゃいました。まさに日本、世界の闇を照らす巨星のごとしであり、閣下のご逝去は痛恨のきわみであります。ここに心からの敬意と感謝の念を表し、篤く御礼を申し上げ、ご冥福を心からお祈り申し上げます。
呉善花 東京国際大学教授・評論家
安倍元総理、一九九〇年代初め頃、あなたと中川昭一さん主催の「若手議員勉強会」でお話をさせていただいて以来、何度もお会いする機会に恵まれました。私宅での茶室開きにおいでいただいたこと、総理公邸の夕食会にお招きいただいたこと、小さな居酒屋で杯を傾けたこともありました。生涯残る貴重な思い出として深く胸に刻んでいきたく存じます。
最も心に強く印象づけられたあなた独自の政治姿勢について触れておきたく存じます。
二〇一二年十二月十六日の衆議院選挙で自民党が圧勝してあなたの次期首相が確定し、同月十九日に朴槿恵の韓国大統領選挙勝利が確定しますと、その日にあなたは「新大統領と緊密に意思疎通を行なうことで、大局的な観点から日韓関係をさらに深化させていきたい」と記者団に語りました。その翌日からあなたは、明らかにイノベーションと言い得る、これまでに例を見ない友好的な対韓姿勢・政策を次々に打ち出していかれました。これほど当初から韓国を重視した日本首相はかつていませんでした。が、まことに残念なことに朴槿恵は、政権の座に就くや否や強固な反日姿勢を露わにし、以後長きにわたって一貫させていったのでした。国民から少しでも親日とみなされないために、だったのでしょう……。
「日本発」の主張・提言で世界の政治動向に多大な影響を与えた、唯一の日本政治家であるあなたの人間力は世界の人々を魅了しました。安倍元総理が残したものは偉大です。心からの御冥福をお祈りいたします。
小名木善行 国史啓蒙家
安倍元総理に黙祷を捧げ、これまでのご活躍への心からの感謝を捧げるとともに、安倍元総理のご冥福をお祈り申し上げます。
安倍元総理は、総理としてまさに美しい日本を取り戻そうとご努力を重ねられているとき、政界において、前からも横からも、そしてこの度の事件同様に後ろからも弾が飛んできたと聞き及びます。このため第一次安倍内閣のときには、心労によってお体を壊されもしました。お辛いお気持ちのときに郷里に帰ると、支持者のみなさんがみんなで拍手で出迎えてくれ、そのことが本当に嬉しくて総理が涙されたというお話も伺いました。そして見事に再び総理に返り咲かれました。
けれど安倍元総理、今度こそ、我々国民が、しっかりと安倍元総理の思いを、心を受け継ぐ番です。
我が国では縄文の昔より、お亡くなりになられた方は家の守り神となり、郷土の守り神となり、国の守り神となるとされてきました。どうか安倍元総理におかれましても、これからは護国の神として、美しい日本を取り戻す神々のお一柱となられて、これからの日本をずっとお護りください。
そして我々国民一同もまた、安倍元総理の御意思をしっかりと受け継いで、断固とした男系護持、日本人の日本人による日本人のための憲法の制定をしっかりと実現していく決意を新たにします。
織田邦男 元空将・麗澤大学特別教授
日本は「安倍晋三」と言う偉大な政治家を失った。海外から悼む声が相次ぎ、多くの国が服喪して半旗を掲げた。日本だけでなく、世界にとっても大きな痛手である。
「アベは何て言っている?」と各国のリーダーが何度も問いかけた。一寸先が闇である国際社会にあって、安倍元総理は「北極星」の役割を果たしてきた。ブレず、迷わず、国際社会のあるべき方向性の基準だった。
日米和解を完成させ、日米をゆるぎない同盟に押し上げた。インド太平洋構想を創り、世界の構想に仕上げた。地球儀を俯瞰する外交で、国際社会における日本の地位を格段に向上させた。
常に戦後レジュームと闘った。教育基本法改正、防衛省昇格、皇位の男系維持、安全保障法制、特定秘密保護法など、どの政権も躊躇した分野に果敢に取り組んだ。さあ憲法改正という時、凶弾に倒れた。その無念さはいかばかりか。
日本を取り巻く安全保障環境は、戦後最悪と言われる。にも拘わらず参院選挙前の外交・安保論議は低調だった。安倍氏がいる限り、最終的に日本の外交・安保は大丈夫だという安心感があった。だが、その安心感は崩れ去った。
羅針盤たる「安倍晋三」はもういない。国民一人一人が日本の安全保障を真剣に考え、日本を守りぬく覚悟を持たねばならない。もはや甘えは許されない。美しい日本の再興に命を捧げた安倍元総理。彼の尊い遺志を継ごうではないか。心より御冥福をお祈りする。
加地邦雄 日本会議九州地方議員連盟会長(福岡県議)
七月八日、参議院選の演説中に安倍晋三元総理が凶弾に倒れ、ご逝去されました。すぐに脳裏をかすめたのは、昭和四十五年十一月二十五日の三島由紀夫先生の死でした。文化防衛論、反革命宣言の中で、(神風特攻隊員は「あとに続く者あるを信ず」と言う遺書を残した。この思想こそ「より良き未来社会」の思想に真に論理的に対立するものであり「あとに続く者」とは、自らを最後の者と思い定めた行動に他ならぬからである。)と書かれています。
常に最後の者と決意されていた安倍元総理とは共に憲法改正を目指して参りました。平成三十年八月、日本会議地方議員連盟役員会で、憲法改正福岡県方式の組織づくりを説明したその折、「素晴らしいね!加地さん後を頼みますよ!」との安倍元総理の言葉は今も鮮明に残っています。
鍛冶俊樹 軍事ジャーナリスト
安倍元総理の最大の功績は「自由で開かれたインド太平洋」を提唱し主導したことだ。この構想は米国を始め世界各国の理解と賛同を得て、世界最大にして最高の平和構想となった。日本がかくも雄大な構想を世界に提示し実現に踏み出したのは歴史上初めてである。
だが安倍総理は、同構想を成功させるためには二つのキーがあることを認識していた。一つは台湾防衛であり、もう一つは中露連携の阻止である。従って平和安全法制などで日米同盟を強化し、一方ではロシアと、首脳会談を重ねたのである。だが2020年9月に安倍総理が辞任するや、ロシアは中国との連携を模索し始め、昨年10月には中露合同艦隊が日本を周回するに至った。
自由インド太平洋構想の瓦解を直感した安倍元総理は同年12月に「台湾有事は日本有事であり日米同盟の有事である」と発言し、日本の防衛費の倍増を政府に進言した。政府はこの進言を受け入れ防衛費の大幅な増額を約束した。
政府は年末までに国家安全保障戦略等を改定し、防衛力の大幅な強化のための具体的な計画を示すはずだが、厳しい財政事情のもと、財務省が防衛費の倍増に激しい抵抗の姿勢を示している。
倍増と現状維持を足して2で割って1・5倍増などと言うのでは、自由インド太平洋構想は確実に瓦解する。安全保障は成功か失敗かの二つしかなく、成功と失敗を足して2で割れば確実に失敗となる。
岸田総理よ、安倍元総理の遺志を継げ!
勝岡寛次 麗澤大学国際問題研究センター客員教授
安倍元首相が白昼堂々、テロの凶弾に倒れた。誰もが予想だにしなかつたことで、私は明治末年の、安重根による伊藤博文暗殺を想起した。二つの事件は、多くの点で共通点がある。
第一に、伊藤も安倍も長州(山口県)の出身だ。伊藤は松陰門下であり、安倍元首相も松陰を深く尊敬してゐた(晋三の晋は高杉晋作に由来)。二人は時代は違ふが、育つた風土や志を同じくしてゐる。
第二に、憲法との深い関はりだ。伊藤は大日本帝国憲法の立役者である。自ら渡欧して西欧の憲法を学び、我が国の伝統に立脚した明治憲法を制定した。安倍は終始一貫して、日本国憲法の改正を主張した。我が国の伝統にそぐはない、占領軍に由来する憲法だからだ。
第三に、伊藤は初代内閣総理大臣として、その歴史的評価は既に揺ぎないものがある。安倍の歴史的評価は定まつてゐないが、伊藤と並ぶ大宰相として、歴史にその名を刻むだらう。
国葬は、戦後では吉田茂に次いで二度目のことださうだが、憲法改正に終始消極的だつた吉田に比べ、「戦後レジーム」からの脱却を志し、憲法改正に人一倍熱心だつた一点をとつても、首相としての器量の大きさは際立つてゐた。安倍の悲願は、後を託された日本国民共通のレガシー(遺産)だと思ふ。
伊藤が非命に斃れた後の日本は、韓国を併合せざるを得なくなり、これが良しも悪しくも近代日本の歩みを決定した。安倍亡き後の日本は、憲法改正に踏み切るだらうし、さうならなければ日本の未来はない。来る安倍元首相の国葬は、その決意を込めたものにしたい。(正仮名遣、原文のまま)
桂由美 一般社団法人全日本ブライダル協会会長
ファッションデザイナーとして、私が安倍元総理の功績について書けるほどの知識は少ないのですが、十数年前、国際連合での地位が相当落ちていた日本を立て直し、G7やG20で影響力をもつようになったのは安倍政権の、外交の努力の賜物だと言えると思います。地球儀を俯瞰した外遊は81回を超え、訪れた国、地域は延べ176ヶ国に及び、日本に迎えた外国首脳の数も多く、特におもてなしの饗宴外交の見事さには、皆、舌をまいたと思います。
私は2018年、日仏友好160年を記念して、安倍総理と当時のフランス大統領であった、オランド氏の合意によって実現した「ジャポニズム2018響きあう魂」に参加しました。パリコレで発表した作品の中から、伊藤若冲、鈴木其一、葛飾北斎などの画家の造形美と、鮮やかな色彩のコントラストを、手描き友禅や西陣織、日本刺繍など、日本独自の染色技術を駆使した作品8点をエッフェル塔のそばの日本文化会館に展示しました。そして、2019年4月、総理大臣官邸、大ホールで感謝のつどいが開かれたのです。その招待状には、ラストに「ジャポニズム2018実施のために尽力して頂いた日仏両国の全ての関係者の皆様に感謝申し上げると共に、文化を通じた日仏の協力が、日仏関係のみならず、日本と欧州の未来に向けた、パートナーシップを一層豊かなものとし、日仏の感性の共鳴が、世界へと広がっていくことを心より祈念いたします。」と、安倍総理が最も望んでいたであろう言葉がつづられていたのです。
今、私は文化の交流を通じて諸外国とのパートナーシップを深めてゆくことに一層の努力をし、安倍総理の念願に応えたいと思っています。
上島嘉郎 ジャーナリスト
「やあ、編集長」。雑誌の対談などでお目にかかると、気さくに声をかけてくださった安倍さんの笑顔が忘れられません。第二次政権発足後、「安倍晋三、救国宰相の試練」という特集号(別冊正論)を出しました。「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍政治の「歴史的使命」を論じ、それを支える国民の覚悟を問うた一冊です。
戦後日本の根本課題に挑み続けた政治家は、道半ばに斃れました。国民の一人として無念でなりません。
生前安倍さんは、父晋太郎氏の葬儀で、また盟友中川昭一氏の葬儀で、吉田松陰の『留魂録』の一節を胸に、哀悼の情と自らの決意を明かしていました。
〈十歳で死ぬ者は、その十歳の中におのずから四季を存し、二十歳の者には二十歳の中に、三十歳の者には三十歳の中に四季があり、五十、百はおのずから五十、百の中に四季を有するはずである。
私は三十歳、四季はすでに備わっている。花も咲き実も結んだはずだ。同志の君達のなかに、私のささやかな真心を憐れみ、私の志を継いでやろうという人がいるなら、それはのちに蒔かれる種が絶えないで、穀物の収穫がつづけられていくことを意味するのだ。
同志よ、どうか私の言わんとすることをよく考えてほしい。〉此度は夫人の昭恵さんがこの言葉を会葬者に伝えました。松陰の「至誠留魂」を信じた安倍さん。その志は今私たちに向けられています。後に続くを信ず、と。
河野克俊 前統合幕僚長
海上幕僚長時代の平成25年4月、総理に返り咲いて間もない安倍総理を硫黄島で迎えた時の印象は鮮烈だった。視察を終えて航空機までお見送りする際、安倍総理が突然滑走路の上にひざまずかれ、手を合わせて、頭を垂れられたのである。私としても全く予期していない行動だった。私はどうしていいか分からず、総理をただ黙って見つめるほかなかった。
硫黄島は日米の激戦地であり、いたるところに日米将兵のご遺骨が埋まっている。米軍は硫黄島を日本空襲の基地として使用するため、占領後は突貫工事で滑走路を整備した。滑走路の下には日米の将兵のご遺骨が眠っているのである。そのことを総理はご存じだった。報道陣は、次の視察地である父島に先行しており、パフォーマンスでも何でもない。その姿を見て「この方は心底、戦歿者に対する哀悼の念が深い方だ」と痛感した。自衛官として、そんな最高指揮官の姿に感銘を受けないはずはない。
また、安倍総理は真のシビリアン・コントロールを確立されようとした方だった。シビリアン・コントロールとは、軍に対する政治統制のことだが、戦後のシビリアン・コントロールの考え方の主流は、戦前、戦中の経験から自衛隊を極力政治から遠ざけることだった。それを安倍総理は自衛隊を政治に近づけることによって真のシビリアン・コントロールを確立されようとされた。安倍総理は、真の誇らしい自衛隊の最高指揮官だった。
北野幸伯 国際問題アナリスト
私にとって、安倍先生は、本当に誇らしい総理でした。2012年11月14日、中国はロシアと韓国に「反日統一共同戦線創設」を提案しました。領土問題を抱えた3国が一体化して、「日本の領土要求を断念させよう」というのです。日本に断念させるべき領土には、尖閣だけでなく「全沖縄」も含まれていました。
さらに、中国は、「米国も反日統一共同戦線に引き入れる」としていました。当時私は、日本の未来に恐怖していました。しかし、安倍先生は、数年間で日米、日露、日韓関係を改善させ、中国の反日戦略を無力化したのです。
また、先生は2016年8月、「自由で開かれたインド太平洋戦略」を提唱されました。現在この対中大戦略は、日本、米国、欧州、インド、豪州などの共通戦略になっています。
日本の首相が提唱した戦略が、民主主義陣営の共通大戦略になっている。前代未聞のできごとです。
令和4年7月8日、日本は、偉大な戦略家を失いました。これから私たちは、先生ぬきで、日本国を守っていくことになります。独裁勢力の横暴を見るに、「大丈夫だろうか」と不安になります。
そこで、安倍先生にお願いしたいことがあるのです。天国に行かれても、これまでと変わらず、日本国を守り導いてください。
先生が、「まかせてください」とにっこり微笑まれているのが見えます。
安倍先生、本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願い申し上げます。
北林康司 日本会議東北地方議員連盟会長(秋田県議)
「安倍元総理が撃たれる」の一報に、何故?どうして?その後、言葉が出てきませんでした。虚しく死亡が現実のものと判った時、大きな悲鳴と同時に涙がとめどなく流れ止みませんでした。
去る六月十三日、神政連国会議員懇談会に地方議連もご案内いただいた折、安倍晋三会長から「遠い所ありがとう」と声をかけていただき、安倍会長を囲んで秋田県神社庁の皆さんと写真を撮っていただいたばかりでしたのに…
私が自民党全国幹事長連絡協議会会長に選出されて以降は、親しくしていただき、私は言いたい事を言わせてもらいましたが、優しく包んでくださいました。今思っても冷汗が出て来ます。
五月に逝去された葛西敬之JR東海名誉会長を偲んで安倍元総理と櫻井よしこ先生が月刊誌『WiLL』八月号で対談しています。櫻井先生が、葛西さんは「安倍さんは歴史観、国家観が素晴らしい。安倍さんがいる限り、日本は方向性を誤らない」と、ベタ惚れでした、と言っています。
安倍元総理も葛西さんについて「ここで靖國参拝を止めれば、日本は簡単に折れる国だと思われてしまう。譲れないものは譲れない」と言っていたことが印象的だったと語っています。
また、安倍元総理は、伊藤博文暗殺時、山縣有朋が詠んだ和歌「語り合ひ盡しし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」を葛西さんに贈りたいとも言っていますが、この歌を今、多くの国民が安倍元総理に贈りたい気持ちでしょう。急いで走って逝かれた安倍元総理。とても残念で悔しいです。安らかにお眠り下さい。合掌
北村淳 軍事社会学者
安倍晋三元首相は凶弾に斃れ突然帰らぬ人となってしまったが、安倍氏の遺志を受け継ぐには行動が必要である。
安倍元首相が遺された軍事安全保障面における数々の道筋のうち、防衛当局はもとより経済産業省や外務省そして国会などが本腰を入れて推進させなければならないのは、第二次安倍内閣時代に打ち出された防衛装備移転三原則である。
この原則は、如何なる国家にとっても精強なる軍事組織とともに国防の両輪の一つとなる防衛関連産業を育成するだけでなく、日本製防衛システムを通して同盟友好諸国との実体ある防衛協力を維持するため、まさに画期的な方針と言える。
それだけではなく、最先端技術を多用せねばならない兵器システムの開発は、非軍事分野における技術力の発展維持にも大きく貢献するとともに、幅広い産業分野を巻き込む必要もあるゆえに、日本経済の再興にも大きく寄与することになる。
残念ながら、これまでのところ政府諸機関や政治家たちの努力不足のため、防衛装備や関連技術の輸出や共同開発に関してはさしたる効果が上がっていない。われわれは、この原則が持つ意義を再認識し、民間、政府諸機関そして国会が一丸となりこの原則を推し進めていくことこそ、安倍元首相を行動によって追悼することになるものと信ずる。
北康利 作家
凶行の後、心療内科に駆け込む人がいたというが、国民の多くが今もPTSDに苦しんでいる。それほど安倍晋三閣下は国民に愛された首相だった。
刑事事件件数の低下も安倍政権の成果だが、起こるはずのない事件が起きてしまった。まるで戦死である。私は閣下の御霊が靖國に行かれている気がしてならない。
アベノミクスばかりが喧伝されているが、閣下の外交手腕は卓越していた。戦争とは外交の失敗だという意味で、閣下ほど戦争を抑止してきた首相はいないだろう。
残された我々は、悲願とされていた憲法改正を何が何でも達成せねばならない。実現の暁には、靖國へ報告に行きたいものである。
金美齢 評論家
安倍晋三さんは永遠に生きている。日本を愛し、台湾を愛し、世界を愛する人の心の中に。
以下は曽て、対談の中で安倍さんが発した言葉です。
《ピースボートが海賊の跋扈するソマリア沖で、自衛艦に保護を求めたことがありました。ピースボートを主宰している辻元清美さんは自衛隊の派遣に反対した人ですよ。現実を無視して自衛艦の派遣に反対していながら、自分たちはぬけぬけとその自衛艦に保護を求めてくる。私は「ピースでボーッとしてる人たち」と言っているんですよ。戦後レジームの中で育った人間の典型がこれです。》
衆議院議員の池田佳隆さんのパーティに届いたビデオレターで「今日の講師は私の恋人、金美齢さんです」と。私は「年寄だと思って安心してるよ。絶対スキャンダルにはならないから」。満場の拍手でした。
工藤美代子 ノンフィクション作家
なぜ安倍元総理が突然のように凶弾に襲われて亡くなったのか。その事実を体内で消化し切れないまま問い続けている日本人は多いことだろう。民主主義の敗北か、日本全体の気の緩みか、時代の閉塞感かといった言葉がマスコミには溢れている。
私は安倍元総理とお会いしたことは3、4回しかない。いずれも穏やかで楽しい会話が記憶に残っている。しかし、元総理の政治家としての業績や人柄を語る資格など自分にはないのは承知だ。
安倍氏が暗殺されたという第一報を知った時には驚きで呆然とした。その翌日に私の脳裏に浮かんだ和歌があった。
「その人を語るは外にありぬべし老いたる友はよろぼひて泣く」
昭和18年4月、連合艦隊司令長官の山本五十六が、前線視察に出たブーゲンビルの上空で、米軍に撃墜され戦死した。日本国民の慟哭は深く、新聞は山本の死を悼むと同時に、国民の士気を鼓舞する記事で覆われた。その時に山本と長岡中学で同窓だった外山且正が詠んだのが先の歌である。
もしも山本が生きていたら、戦争はあれほど長引かなかったのではないかと語る人は、戦後も跡を絶たなかった。
私は安倍晋三という政治家を詳しく評価する学識は持ち合わせていない。それは政治家、経済人、評論家、研究者の方々に任せたい。ただ今は、マジョリティーの国民と同じく、よろぼいて泣きながら追悼したいのである。
グレンコ・アンドリー 国際政治学者
日本は安全な国だという印象が強い。日本周辺の情勢は前から危ないと指摘されているが、日本国内でテロや国の指導者に対する暴力は極めてまれなことだと思われていた。しかし、安倍元総理の残虐な暗殺で、この常識はもはや過去のものとなる。
安倍元総理は、よほど無念だったであろう。このような形でこの世を去るなど理不尽極まりない。ご家族や安倍元総理を慕っていた方々に謹んでお悔やみ申し上げたい。
まだまだ実現したい思いはたくさんあったろうに、何の根拠もない、思い込みにのみ基づく暴力によって斃された。犯人が言うことはあまりにも支離滅裂である。彼が憎むはずの対象は安倍元総理と何の関係もない。精神が病んだテロ犯の妄想のせいで、標的になる虚しさは言葉に言い尽くせない。
このようなことは、絶対に繰り返されてはならないが、繰り返されない保証はあるのか。安倍元総理の暗殺は日本国内の警備、安全保障の問題点を露わにした。もし、ただの素人の狂人ですら最重要の政治家の命を奪えるなら、プロだったら尚のことできる。さらに、日本と敵対している国や勢力にとっては実に簡単なことだ。
安倍元総理の暗殺は、日本と敵対している勢力に「日本の要人は簡単に殺せる」という誤ったメッセージを送りかねない。だから、日本の要人の警備を根本的に強化しなければならない。集会や街頭演説の形式も警備員の能力も問い直されなければならない。これは国全体の平和と安全に関わる重要な課題だ。
ケント・ギルバート カリフォルニア州弁護士
安倍晋三元首相が7月8日、街頭演説中に銃撃された一報を知り、衝撃を受けた。
ケネディ米大統領の暗殺(1963年)を思い出した。当時、小学生だった私は体育館でダンスの授業を受けていた。先生が突然、飛び込んできて、生徒は教室に戻されて、数時間後に訃報が発表された。安倍さんの件は、それ以上の衝撃だった。
安倍さんとは、「日本国憲法を考えるシンポジウム」や、月刊誌の対談など、ご一緒する機会が多かった。お会いすると、簡単なあいさつだけではなく、常に「ケントさん、あの本を読みましたよ」などと声を掛けてくれた。その心配りに、いつも感銘を受けていた。
安倍さんが残した功績は大きい。「外交の安倍」として世界各国の首脳から絶賛され、特に日米同盟強化に力を入れた。2019年の令和改元後、国賓として最初に、当時のドナルド・トランプ米大統領夫妻を招待した。同年の対談(『WiLL』7月号)で話を聞くと、安倍さんは「米国は日本にとって唯一の同盟国です」「日本の総理大臣は米国大統領と信頼関係を築く責任と義務を負っている」と語っていた。非常に印象的だった。
私は、安倍さんの首相在任中に、憲法改正を実現してほしかった。
今回の参院選では、自民党だけで改選過半数を獲得し、改憲勢力は3分の2以上を維持した。「自衛隊明記」を含む憲法改正に早急に取り組むべきだ。岸田文雄首相はじめ政治家はその遺志を継ぎ、責任を持って憲法改正を成し遂げてほしい。
安倍さんのご冥福をお祈りいたします。
黄文雄 文明学者・評論家
岸田文雄現首相が、万難を排して凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬を決めたことについて、その勇気と決断を評価しないわけにはいかないでしょう。
当初は犯人について元海上自衛隊員と報じられていましたが、今はもっぱら宗教団体(旧統一教会)の関係者としての側面に注目が集まっていることに違和感を禁じえません。というのも、マスメディアの報道があまりにも針小棒大だからです。
政治家が宗教団体と付き合うのは当たり前で、首相ばかりでなく与野党の党首にもよくある話です。
特定の宗教団体との付き合いばかりを取り上げるのは、安倍元首相の功績を矮小化しようとするマスコミの手口です。それよりも大事なのは国際貢献であり、外交面で国際的にどう見られているかを伝える必要があります。マスコミによる矮小化の罠に警戒しなければなりません。
繰り返しますが、特定の宗教団体と交流するのは、一国の首相として当然のことです。私・黄文雄は、文明学者として当たり前のことを述べているだけです。
安倍元首相の国葬にあたっては、やはりその国際貢献について報じるべきであって、宗教団体に関する行き過ぎた報道はむしろ抑えるべきです。それこそが政治の正道ではないでしょうか。
凶弾に倒れた安倍元首相には国葬がふさわしく、政治外交への貢献こそが注目されるべきなのです。
後藤俊彦 高千穂神社宮司
令和四年七月八日、参議院選挙遊説中の安倍元総理が凶弾に斃れた。「まさか」と思う私の脳裏に、一九六三年十一月、米国テキサス州ダラス市内で講演会場に向う車中で暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の悲劇的な映像が思い浮んだ。その日から六十年余をすぎたわが国において、かけがえのない天与の政治家を失うとは想像だにできない凶事が起きてしまったのである。
私は神道政治連盟の役員を務めていた頃に幾度か氏の謦咳に接する機会があった。飾り気のない率直な人柄でいつもユーモアを交えた語り口の人であった。中でも私の記憶に残っているのは平成二十四年三月十日、福島県相馬市で斎行された神道政治連盟主催の大震災物故者慰霊祭における安倍会長のスピーチである。二十分ほどの挨拶であったが、氏の純粋な人柄、政治家としての信念と国民を思いやる真摯な心情が言葉の隅々に漲っていた。さらに被災者に向けられた天皇陛下に対するむすびの文言には、氏の皇室に対する敬虔な心根が伺われ生涯忘れえぬ名スピーチであった。安倍元総理に対して世界二百ヶ国を超える国々から弔意が寄せられた。
戦後体制を脱却し美しい国を取り戻そうとした政治家安倍晋三氏の記憶は、昭和四十五年に「憲法改正」を訴えて自決した作家三島由紀夫と共に戦後日本の歴史に刻まれてゆくことであろう。
小堀桂一郎 東京大学名誉教授
安倍晋三氏の遭難は公人の暗殺事件としては戦後最大の衝撃を私共に与へた凶報でした。氏を斃した銃弾が政治的背景を持たない、次元の低い私怨から発せられたものと知つた時は、そんな事でこの世界的政治家が生命を奪はれるといふ不条理に深刻な厭世観に襲はれました。
政治家としての安倍氏には真に世界的な使命があつたのです。思ひ返せば昭和二十六年五月、連合国軍最高司令官の地位を解任されたD・マッカーサー元帥は、米国上院の軍事外交合同委員会に於ける査問に答へて〈過去百年間に米国が太平洋で犯した最大の政治的失策は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまつた事です〉との悲痛な告白とも見るべき証言を行ひました。
この真摯な〈アメリカ誤てり〉の反省にも拘らず、その後半世紀以上に亙つて合衆国政府はジョージ・ケナンの謂ふ〈封じ込め〉ならぬ、その逆の〈関与〉政策を以て中国共産党政権を甘やかし続けました。
この世界史的過誤を修正し、アメリカの対中政策を正道に戻す見識と発言力を有する政治家は安倍氏以外に現代世界には居ない、といふ現実を目撃し、漸く明るい希望の光を認めた矢先での遭難です。
今となつては、安倍氏が樹立した修正路線である「自由で開かれたインド大平洋」構想を継承し、力強く推進してゆく事こそが、故人を顕彰し、その遺志に答へる、最善の追悼に他ならないと考へます。日本国の将来を担ふ政権担当者の覚悟を切望するものであります。
(原文正漢字、正仮名遣は原文のまま)
古森義久 ジャーナリスト
凶悪な銃撃の犠牲となった安倍晋三氏の遺産の巨大さはいま私が報道活動の拠点とするアメリカの首都ワシントンでも十二分に実感された。バイデン現大統領、トランプ前大統領いずれもが追悼の記帳や特別の言明という形ですぐに丁重な弔意を表明した。
連邦議会の上院は安倍氏の「自由で開かれたインド太平洋」構想など国際的な業績への賞賛をこめて特別決議を採択し、氏の悲惨な死を悼んだ。主要な公館の多くのアメリカ国旗は弔意を示す半旗となった。日本よりも明白な形での喪の表明だった。
アメリカでの弔意がこれほどの超党派で広範だったことは安倍氏の対米関係重視の姿勢の発露だったともいえよう。ワシントンを頻繁に訪れた安倍氏とは私自身、膝を交えて語ることも何回もあった。ニューヨーク・タイムズから依頼されて「誰がシンゾー・アベを恐れるのか」という見出しの寄稿記事を書いたこともある。彼の民主主義と対米協調への信奉を私なりに解説した記事だった。
なにしろ氏との知己を初めて得たのはちょうど四十年前、外相秘書官と外務省担当記者としてだった。その後の彼は一貫して日本を正常な国にすることに努めたといえる。アメリカ製の憲法で自国の防衛という国家の国家たる自立機能を抑えられた異端を是正するという目標だった。日本を真の民主的な均衡のとれた独立国家として普通の国にする努力だった。
そのために安倍氏は目前の体制に挑戦した。多数派の意見に反対した。この意味では安倍晋三という指導者は保守ではなく改革派と呼ぶことがふさわしいようにも思える。
小柳志乃夫 公益社団法人国民文化研究会理事長
兇弾に斃れられた安倍元首相の無念を思ひ、御霊安かれとお祈り申し上げる。
逝去された後しばらく、各種の報道や過去のビデオなどを見ては、その大きな功績と強い志と、慕はしいお人柄を偲んだ。
顕著な成果を残した外交については、改めてその厚みを思った。
自由・民主主義・法の支配といった価値観の共有を通した戦略的連携とともに、個別外交では歴史に根差した深い交流が展開された。米国議会演説では、日米激戦の硫黄島の勇者を称へ合ひ、強い共感を得たし、伊勢・志摩サミットでは伊勢神宮を共に参拝して神話につながる日本の国柄を世界に示した。首脳間の率直な交流とともに、互ひの国の歴史に敬意を払ひ、そこに生まれる和解や信頼を基礎に、覇権国家に対峙する同盟関係の強化が進められたやうに思ふ。
自国への深い愛情が他国の人の心の深みに響く。日本を取り戻すことが世界との交流を豊かにする。このことは安倍元首相の残した大切な教訓である。自虐史観に陥り、国際政治の現実を直視せず、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持する」といふ日本国憲法前文の世界に閉ぢこもってゐてはかうした交流はできまい。今回の各国から寄せられる深い弔意は、安倍元首相の国際政治に対する識見の高さとともに、心の交流の真実を示してゐる。
安倍氏と同様に日本を自ら取り戻し、それを柱に据ゑた政治指導者の志の継承を願ふ。それは同時に我々国民の課題である。(正仮名遣、原文のまま)
近藤永太郎 日本会議近畿地方議員連盟会長(京都府議)
3年ぶりの祇園祭山鉾巡行を間近に控えた令和4年7月8日正午ごろ、京都四条河原町に安倍元総理をお迎えし、参院選の応援演説を行っていただく準備を進めていた私たちのもとに、安倍元総理が凶弾に倒れられたとの報が飛び込み、夕刻には、御快復を願う国民の願いも虚しく、御逝去されました。
衷心より哀悼の誠を捧げます。
安倍元総理の御功績は枚挙に暇がありませんが、制定以来60年ぶりに教育基本法を改正し、道徳心、公共心、愛国心など、日本人の心を育むことを明記され、また、防衛庁の「省」への格上げや平和安全法制の成立、国民投票法の制定など、戦後レジームからの脱却に全力を尽くされたことが大変印象に残っております。
未だ終息の兆しを見せないコロナ禍やロシアのウクライナ侵略など、国難ともいえるこの困難を乗り越えるために、また、品格があり、誇りの持てる「美しい国」を創りあげるためにも、安倍元総理の御活躍を望んでいただけに、民主主義を揺るがすこの度の暴挙にやり場のない怒りを感じます。
世界が認める偉大な政治家を失った深い悲しみは、簡単には癒えませんが、日本会議近畿地方議員連盟としても微力ながら、安倍元総理の御遺志、御功績を基に、日本人の誇りと、我が国の繁栄・安心の確保に力を尽くしてまいることをお誓い申しあげます。
結びに当たり、改めまして安倍元総理の御功績に敬意を表しますとともに、御冥福を心からお祈り申し上げます。
榊原智 産経新聞論説委員長
安倍晋三元首相ほど世界から悼まれた政治家が日本にいただろうか。凶徒の銃弾に斃れるや、日本からはもちろん、世界中から哀悼の意が寄せられた。日本にありがちな「状況対応型の首相」ではなかった。日本や世界にとって望ましい、公正な国際秩序を守ろうと能動的に働き、世界のリーダーと目された。日本の国際的地位向上に大きく寄与した。
提唱した「自由で開かれたインド太平洋」構想は欧米諸国でも採用された。覇権主義的な中国を多国間で抑止するのに不可欠な戦略概念だったからである。
戦後の首相経験者で国葬で送られたのは吉田茂氏だけだった。講和で独立を実現し、日米安全保障条約締結で東西冷戦下の日本が自由陣営の国として繁栄する基盤をつくった。
安倍元首相の治績はそれに並ぶ。政治生命をかけて実現した、集団的自衛権の限定行使に道を開く安保関連法の制定は、日米同盟の抑止力を格段に高め、「米中新冷戦」という厳しい新時代を日本が生き抜く基盤になった。世界的視野を持てば、海外の要人も参列する国葬がふさわしい。
国柄の守護者でもあった。皇位の男系(父系)継承を守り抜こうと努めた意義は極めて大きい。拉致問題にどの政治家よりも熱心に取り組んだのは国民を大切に思ったからだ。
安倍元首相は、日本と世界のあるべき秩序、平和を守り抜こうと努めた希代の宰相だった。心から哀悼の誠を捧げたい。
櫻井よしこ 公益財団法人国家基本問題研究所理事長
安倍晋三元総理の暗殺で日本にぽっかりと大きな穴があいた。今更ながら、どれほど多くの日本国民がどれほど安倍総理に期待し、頼っていたかを実感する。
安倍総理は「日本を取り戻すこと」を目指した。総理はそれを戦後レジームからの脱却と言った。今、その言葉は安全保障を軸に論じられているが、元々の目標は言葉どおり、本来の美しき善き日本の姿を取り戻すことだった。そうした社会で倫理観と道徳心を身につけて育った日本人はおしなべて皆立派な日本人だった。この伝統の限りない重要性を訴えたのが安倍総理だった。
経済も国防も、国民が祖国の未来を信じ、応分の責任を果たす気持ちになれば日本は強くなれる。そのとき初めて日本は国際社会の荒波を乗り超えられる。だからこそ一緒に日本を取り戻そうと、総理は説いた。
米国とも中国とも異なる日本の価値観を信頼した安倍総理は少なからぬ国際戦略の枠組みも実現した。自由で開かれたインド・太平洋戦略は安倍総理の提言であり、それは今や米欧諸国の大戦略となった。中国をどのようにして抑止していくか、制御していくか。その戦略論において国際社会は安倍総理の価値観を基軸にした外交に敬意を払い、その死に深い哀悼を表している。
いま大事なことは日本の誇る政治家、安倍総理の残した課題を引き継ぐことだ。それが残された私たちの役割だと思う。
桜林美佐 防衛問題研究家
安倍元首相が奈良の橿原という地で、まるで神の国に吸い込まれてしまったかのように命を奪われ、心がざわついたままです。痛恨の極みは、安倍さんが常に尊重していた自衛隊と警察が死に導いてしまったという事実です。
元自衛官だからといって銃の扱いはもちろん製造などできるわけではなく、自衛隊との関連性を強くにおわせた報道はミスリードでしたが、かといって3年の任期制隊員だからその存在は軽いというわけではありません。3年であれ30年であれ大切な隊員であり、この任期制隊員こそが現在、最も自衛隊に必要な人たちなのです。
安倍元首相の目指した改憲は、自衛官が退官後に「元自衛官です」と胸を張れるものだったのではないでしょうか。それを思うと悔しさが溢れます。
自衛隊違憲論を正し、学校でその存在をしっかり教えることが必要だと安倍さんは考えていました。しかし現在は国民の自衛隊に対する感情は大きく変化したのだから今さら憲法に明記する必要はないとも言う人もいます。これに対してはこのように答えていました。
「それはこれまで自衛隊が歯を食いしばって耐え築いてきた信頼のたまもの、こんどは政治の側が責任を果たさなければならない」と。
では、安倍さんが歯を食いしばって築いてきたことに、こんどはいかに責任を果たしていくのか?安倍さんの功績の受益者である我々は涙を拭い、残された者としてなすべきことをしなければならないようです。
佐波優子 戦後問題ジャーナリスト
安倍晋三元首相のご逝去を悼み、衷心より哀悼の意を表します。安倍首相の蒔かれた種を引き継ぐ私達国民の一人として、どうしても忘れられないものを一つ上げるとすれば、私にとっては、平成二十五年四月二十四日の参院予算委員会での発言です。
ある野党議員が、閣僚らの靖國神社参拝に中国や韓国が反発していることをどう感じているのかと質問したときのこと。安倍元首相は、「靖國神社に、御英霊に対して、御冥福をお祈りをする。それについて批判をされることに対しては何も痛痒を感じずに、批判されたことに対してそれはおかしいと思われることが私はおかしいと思います」。と答え、更に「私たちの歴史や伝統の上に立った私たちの誇りを守っていくということも私の仕事であります」と仰いました。
この発言の十数日前、安倍元首相は硫黄島を訪れました。元首相は天山慰霊碑での戦没者追悼式に参列、司令部壕や遺骨収容現場、摺鉢山を視察されました。そして島を飛び立つため救難飛行艇US2に向かい滑走路を歩いている時、安倍元首相は突然、滑走路に跪き、手を合わされました。島内には、滑走路の下にも沢山のご遺骨が眠っておられる。全ての御霊へ心からの追悼の思いを示されたのが安倍元首相でありました。河野元統合幕僚長が伝えるこの姿こそ、安倍元首相の偽らざる衷心からの姿と信じます。
先人たちの誇りを守ることに全力を尽くした安倍元首相の愛国の種が、日本国に咲き誇ることを願います。
敷島の 大和心を 蒔き晋む
華と啓かん 葦原の種
執行草舟 著述家・実業家
令和四年七月八日、我々は日本を支え続けた清らかな「良識」を喪った。言うまでもなく、元総理・安倍晋三のことである。私もまた、多くの日本人と共に、この喪失感に苛まれる日々を送っている。いま日本は、ひとつの歴史的運命の転換点に来たと私は考えている。
安倍元総理の政治的業績について、私は口を挟む立場にはない。ただ、その政権の日々に、我々国民の一人ひとりに向けられた無垢としか言いようのない、その笑顔の印象が忘れられないのだ。その笑顔は、安倍元総理の「人間生命」の全体から醸し出される真実だった。その笑顔が、強く私の脳裏に焼き付けられている。美しい笑顔は、人間的品格からのみ生み出される。だから、そこから出発した政治思想は、美しいものに決まっているのだ。政治とは所詮、人間が行なうものだからだ。いかなる政策も、人間が行なっている。私はあの人間的温かさを湛えた美しい笑顔の「原点」を信じている。その原点は、歴史的な「正統」が創り上げているものに違いない。
安倍元総理は、その正統を担い続けて来た人物だと思っている。だから、いかなる時も「洗練」の姿勢を失わなかった。いかなる時にも、日本の「中心軸」を失わなかった。そして、日本人が日本人らしく生きることだけを願い続けていたのだろう。そういう当たり前のことが、正統の持つ真の力なのだ。
いまはただ、日本の正統のために殉じた、その生命の尊さを偲びたい。その魂の誠を仰ぎたい。
島田洋一 福井県立大学教授
凶弾に倒れる直前に、安倍元首相が発した最後の言葉は、「彼はできない理由を考えることはない」だった。政界、官界にはびこる「まずできない理由を考える」風潮を戒めた大政治家の遺言だったと私は捉えている。
それには次のような根拠がある。今年3月私は、英国型の独自核抑止力を日本も保有すべきことを説く一文を産経新聞「正論」欄に寄せた。英国は、発見されにくく残存性の高い原潜4隻にそれぞれ50発程度の核ミサイルを積み、常時1隻は必ず外洋パトロールに出る抑止(=反撃)体制を採っている。
そのコラムをフェイスブックやツイッターにも転載したところ、安倍氏がほどなく「いいね」を付けてくれていた。もし左翼が発見すれば、「安倍が日本核武装に賛成した」と大騒ぎしかねない「危険な行為」だったが、安倍氏は特に首相退任後、閉塞状況を打ち破るため、自らが切り込み隊長役を演じ、あえて矢面に立つ覚悟を固めていたようだ。
去る6月3日、私も参加し、安倍氏を囲んで行った文化人放送局のインタビュー番組でも核保有問題を取り上げたが、安倍氏は、現下の情勢では政治的に困難と言いつつも、時間を掛けて、普段から思考を巡らせていることを窺わせる丁寧な応答を行った。
常に野党やマスコミに目の敵にされ、理不尽に叩かれ続けた安倍氏だが、さらにそれら勢力が切歯扼腕するような発言をいくつも温めていたと思う。安倍氏は温和な現実主義者であるとともに、常に戦士だった。
志摩淑子 日本女性の会会長
七月八日のあの衝撃│これほどに深い悲しみはありません。今となっては、ただご生前の英姿を偲ぶばかりです。
八年八か月に及ぶ日本憲政史上、安倍氏は最も長く首相をお務めになられ、「アベノミクス」という世界的にも優れた経済政策を推進し、日本国の安全のための「国家安全保障会議(NSC)」も設立されました。「自由で開かれたインド太平洋構想」は、日本の首相の提案として、アメリカの大統領から初めて納得を得たケースであったと伺いました。インドのモディ首相の信頼も深めたことは、言うまでもありません。
憲法改正への懸命な取り組み、東日本大震災復興の指揮、拉致被害者救済へのご尽力等々、日本国の為に本当に心血を注いでくださいました。弊会(日本女性の会)も、安倍元総理が掲げられました「憲法改正実現」に賛同致し、「憲法おしゃべりカフェ」を全国で展開し啓発に努めてまいりましたが、御遺志に報いるべく、今後も憲法改正実現の活動に、全国の役員・会員一同、一層励んでまいらねばと存じております。
安倍元総理のこれまでの幾多のご功績に心からの感謝を捧げ、世界中からの弔意に敬意を表しつつ、ご冥福をお祈りいたします。誠にありがとうございました。
清水ともみ 漫画家
大きな防波堤が壊されました。激しい外波から、時に傷つきながらも、内側から壊そうとする人まで含めて必死で守っていた。
安倍晋三さんが日本国の総理であることが、私はずっと誇らしかった。
海外の人は、総理大臣を通じて日本を見ます。本当の意味の強さから来る優しさ、控え目でありながら豪胆、品の良さ、深い教養、ユーモアなど数えきれない素養がある唯一無二の存在。何よりもその根底に、正しい国家観と実行する高い能力があった。
だからこそ、両脇を掴まれ、捏造で仕事を邪魔され続けました。あの笑顔の裏に抱えていたのは死闘だったと想像に難くない。
2017年のインド訪問の歓待ぶりを問われ、「これは私が歓迎されたのではなく、日本が歓迎されていたのです」との答えに、お人柄が滲みます。
拉致問題、ウイグル問題、日の当たらない時代から、粘り強く率先して取り組まれたお姿を見れば、安倍総理がどこを見てお仕事をされてきたのか、政治家というのは本来何をするべきかを無言で教えてくれています。
国とは家族のようなもの。安倍総理は、日本のお父さんだったと思います。どうやったら家族を守れるかの一心。その背中を見て育った私たち。成すべきこと、行くべき道を示してくれていました。選択肢はない。
どうかこれからは、天から見守っていて下さい。いつかあちらに行った時、少しでも褒めていただけますように、生きて参ります。拙作を読んでいただいたことは人生の誉れです。
白駒妃登美 株式会社ことほぎ代表取締役
安倍 晋三様
貴方を突然失ったあの日、私達はかつて経験したことのない喪失感と閉塞感に包まれました。遂にこの国は天からも見放されてしまったと、絶望の淵に突き落とされたような、言いようのない不安に襲われました。
でも、ふと思い至ったのです。
貴方が亡くなった橿原は、初代神武天皇が即位なさった、日本建国の地。まさに貴方が取り戻したかった「美しい日本」の原点です。
貴方は「美しい日本」の始まりの地で人生を完結させることで、私達に次のステージへ向かう勇気と希望を与えてくれたのですね。
数えきれないほどの輝かしい実績の中で、特に私の心に残るものが二つあります。一つは戦後70年談話、もう一つは貴方が訪問先の国々から発したメッセージです。
戦後70年談話は、私達の世代が子孫に遺し得る最大の財産となるでしょう。そして貴方が外国を訪れるたび、その国の文化や歴史を深く理解し、それらを育んできた人々への敬意に満ちたスピーチを行なったことは、行く先々で大きな感動を呼びました。このたび世界各国から外交儀礼を超えた、深い悲しみと愛に溢れた弔意が届けられたことは、貴方が世界中の人々と真心の絆を紡いできた証です。
自国を愛し誇りを持つと共に、他国の人々を敬い、国境を超えて素晴らしい関係性を築いた貴方のように、私達も真の国際人となって「美しい日本」を再建していきます。貴方と同じ国に生まれ、同じ時代を生きられたことに、改めて感謝致します。
新保祐司 文芸批評家
安倍晋三元総理が凶弾に倒れたという報ほど大きく深い衝撃を受けたものは人生で思いつかない。恩人の方々が亡くなったときでも、それはおよそ病死であり、予想もしていたことでもあったので、今回のように全く考えてもいなかった事件の衝撃は次元の違うものであった。
また、東日本大震災が起きたときや新型コロナウイルス禍が出現したときの動揺とも性格が異なった。大震災やコロナ禍はそれがどんなに深刻なものであったにせよ本質的に災害であったが、安倍元総理の死去は、歴史における悲劇であったからだ。我々は、歴史のただ中に生きているという痛覚を目覚めさせられた。伊藤博文や原敬の暗殺など、歴史の奥にあるものが表に剥き出しになった事件と同じ深さを持つものに出会ったのである。
死去の報を知ったその日の夜、私は、心を鎮めるために、ベートーヴェンの交響曲第三番「英雄」の第二楽章「葬送行進曲」を繰返し聴いた。現代の日本で、或いは戦後の日本において安倍元総理ほど英雄の名に値する人物はいなかったからだ。その非業の最期は、英雄の死に他ならない。その葬送には、この曲こそふさわしい。聴きながら、二度ほどお会いしたときのことが思い出され、音楽が高調して来ると嗚咽をこらえるのは難しかった。
事件から数日間は、心は虚ろであった。その動揺は、少し落ち着きを取り戻して来たとはいえ、精神の底では長く深い影響を受けることになるだろう。
石平 評論家
7月8日に壮絶な暗殺死を遂げた安倍晋三元首相が、日本、そしてアジアのために残した大いなるレガシーの一つは、自由世界による中国包囲網の構築と完成である。
第一次安倍政権では、「自由と繁栄の弧」という名の戦略理念と、「自由で開かれたインド・太平洋」という斬新な地政学的概念を持ち出し、覇権主義的独裁国家の中国を周囲から封じ込めるための国際的枠組みの構築を目指した。
第二次安倍政権発足後は、「地球儀を俯瞰する外交」を積極的に展開し、同盟国や西側友好国との関係強化に努めた。特に米国のトランプ大統領との固い信頼関係のもとで自由世界の対中国政策をリードする役割を担い、G7首脳会議などで主導権を発揮して対中国包囲網構築の一番の推進役を務めた。
その長年の根気強い努力の結果、日米豪印による対中国の4カ国連携(クアッド)が形成され、中国封じ込めのための米豪英3カ国連携も出来上がった。そして2021年、独仏英3カ国の艦隊がアジアの海にやってきて米軍や日本の海上自衛隊との連携を強め、海から中国を包囲する態勢を作り上げた。
戦後77年の歴史において、日本の首相が地球規模の戦略理念を掲げて世界の主要国を動かして一種の国際秩序を作り出したのは、まさに安倍元首相が初めてだった。アジアと世界の平和のために残した元首相の遺産は極めて大きい。
安倍元首相の非業の死を悼み故人の遺徳と偉業を偲びつつ、その遺志を受け継いでアジアと世界の平和のための対中国包囲網の継続と強化を心に誓いたい。「安倍晋三死すとも対中国包囲網は死せず」は、われわれの合言葉である。
施 光恒 九州大学教授
安倍晋三元首相が凶弾に倒れたことは、日本にとって、また世界にとっても大きな損失である。日本や世界の行く末を左右してしまうのではないかと懸念する。
安倍元首相の魅力は数知れない。何よりも人に愛され、人々をまとめる力があった。国内・国外を問わずにである。国内での人気では長期安定政権をもたらしたことで明らかだ。海外においても、トランプ前米大統領をはじめ各国首脳と親密な関係を築いた。安倍政権が提起した「自由で開かれたインド太平洋」という構想は、米国も巻き込み、自由民主主義陣営の対アジアの基本戦略となった。
2012年末に安倍政権が成立したとき私は安堵した。外国人地方参政権、皇位継承、歴史教育など、国家の根本に関わる問題について心配する必要が薄れたと感じたからだ。
その反面、安倍政権の新自由主義に基づくグローバル化路線には疑問を感じることも多かった。本当に「みずほの国の資本主義」を目指すつもりはあるのだろうかと気を揉むことも少なからずあった。世界中が新自由主義路線を追求するなか、また国内では財界や財務省が強大な力を持つなか、致し方ない面も多々あったのではないかと推察する。政権を離れたのち、積極財政派を支援していたことからもそれはうかがえる。
安倍元首相は日本を心から愛した無私の政治家だった。遺志を継ぎ、日本の国柄を守り発展させ、より良き形で次々と来る世代に手渡していくことこそ残された我々の務めである。
田尾憲男 神道政治連盟首席政策委員
安倍晋三元総理は、真にステーツマンと称するにふさわしい大政治家だった。
「戦後レジームからの脱却」を旗印に、「日本を取り戻す」という政治の根本姿勢は我々の心を大いに奮起させた。「地球儀を俯瞰する外交」と「積極的平和主義外交」というのも、スケールの大きい発想力と行動力を示すもので、歴代首相を凌駕し、諸外国の首脳からも異例の高い評価を得ていた。それが氏の名を冠した「アベノミクス」と「TPP」などの経済政策とも相俟って、世界におけるわが国の存在価値を格段に高めたことは氏の大きな功績といわねばならない。
安倍元総理は、日本の皇室の伝統護持のためにもなくてはならない大きな存在だった。二百年ぶりとなった譲位による皇位継承の新立法と、「令和」への御代替りに伴う諸儀式を無事に完遂させ、皇室のために尽力された。万世一系の皇位の安定的継承策を実現する上でも、安倍氏は最も頼りになる政治家だった。最大の使命と自認して取り組んだ日本国憲法の改正はついに実現をみず、不運にも非業の死を遂げ、不帰の人となられた。洵に残念で惜しまれてならない。
岸田首相は、憲政史上最も長期にわたり総理の重責を担ってわが国の国威を高めた安倍元総理の葬儀を、国葬儀とする閣議決定をした。安倍氏の評価は、後世の歴史と史家に委ね、我々国民は静かに追悼して見送りたいものである。
髙橋史朗 麗澤大学客員教授・モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所教授
安倍元首相が銃弾に斃れ亡くなられたことは痛恨の極みであり、心よりお悔やみを申し上げる。拙著『「こども庁」問題Q&A』を昨年11月の私の誕生日に直接手渡し、この問題の核心を深くご理解いただき、尽力していただいたことに深く感謝している。
安倍元首相が超党派の親学推進議員連盟の会長であったため、直接お話しする機会は少なくなかったが、マスコミの不当な親学批判と過激派団体の不当な働きかけによって同連盟が解散に追い込まれた真相について説明できなかったことが唯一の心残りである。関係者に迷惑がかかるので今は公言できないが、機が熟すればいずれ明らかにし、同議連に参加していただいた国会議員にもお伝えしたい。
憲法改正、教育基本法改正を核とした教育再生、「歴史戦」に対する安倍元首相の遺志をしっかり受け継いでいきたい。安倍元首相が、プーチン大統領や中国政府首脳、アメリカをはじめとする世界各国の首脳から高く評価されているのは、「和して同ぜず」の和の精神の見事な体現者であったからである。
昭恵夫人は葬儀挨拶で父の安倍晋太郎氏が亡くなった折に、安倍元首相が書いた手記を紹介し、吉田松陰の遺書『留魂録』の冒頭の辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂」を引用したことに触れ、「種をいっぱいまいているので、それが芽吹くことでしょう」と締めくくられたが、「それが芽吹く」ように思いを致し、力を尽くすことが私達の務めであろう。
高山正之 コラムニスト
「日本は欧米の誰もが予想もしない速さと果敢さで近代化を成し遂げたが、最後は誰も予想しない狂気に駆られ、残忍になって自ら破滅していった」とジョン・ダワーは『敗北を抱きしめて』の序文に書いている。
驚いたことに自虐が染みついたジャーナリズムや官僚、そして村山富市ら政治家までがそうした「狂気の日本」を吹聴し、日本人とその歴史を矮小化して恥じなかった。
そこに安倍晋三が出た。天性の明るさ、大きさは、それを持たない者たちを真に畏れさせた。
その2次政権で安倍晋三は壮大な歴史訓話を発表した。書き出しは国を開いた日本を待ち受けていた世界が「圧倒的な力を持った西洋諸国が第三世界を国ごと奴隷化しつつあった」こと。その危機感から日本人は学び、努力し、ついには欧鯨米虎の一つロシアを倒して「植民地に繋がれたアジア、アフリカの人々を勇気づけた」と続く。
その文意は、日本は白人国家をも倒した実力と物理、医学などの分野でもノーベル賞級の偉業をなし、かつ世界に先駆けて人種平等を提唱した誇りある国家だということを世界の国々に思い出させるものだった。
元首相はそんな日本が戦後のブランクを経て覚醒しつつあると訴え、それを形で示す外交力も披露した。トランプが慕い、EU諸国が一目置く理由がそこにあった。ただ狭量な日本の新聞はそれが分からない振りをして元首相を貶めることに躍起なのは一種の照れ隠しなのだろうか。
大和西大寺駅前で一発目の凶弾がかすめたとき、安倍晋三は背を屈めるでなし、素直にそちらを見た。日本人をこれっぽっちも疑っていない振舞いだった。そして2発目の凶弾を正面に受けた。その明るさが哀しい。
田久保忠衛 日本会議会長・杏林大学名誉教授
「安倍元首相、撃たれる」の第一報から、通信社電などの速報を慄然たる思いで目にしながら、一命だけは取りとめてほしいと私は願った。1963年にケネディ米大統領が暗殺されたときの外電の第一報は「ケネディ撃たる」、次いで「撃たれたのはダラス」など至急報の連続だった。米国民は助かってほしいと祈ったが、天は非情だった。日本は安倍晋三というかけがえのない人物を最も必要としている時代に失ってしまった。痛恨に堪えない。
◆大局から判断した外交・内政
安倍氏の外交、内政を一言で表現しろと言われたら、私は「戦後レジームからの脱却」だと答える。ここから「地球儀を俯瞰する外交」姿勢が登場した。外務大臣が無能なのか外務省に責任があるのか定かではないが、外部で観察するかぎりでは二国間外交、それも相手国を刺激しないことに徹底した外交は「チャイナ・スクール」「土下座外交」という固有名詞まで生んだ。戦略性を帯びる外交には国際情勢を大局から判断する姿勢が不可欠だ。
2011年に国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)がインドを訪れたことがある。安倍氏を中心とする自民党の議員団と一緒になった際に、07年に首相としてインド議会で行った演説の感想を求められた。インド洋と太平洋を眼下に見渡し、戦略性に富んだ、躍動するような文章だったので「役所の書いたものではありませんね」と不躾な答えをしてしまった。これがいわゆる「2つの海の交わり」演説だ。議会は満場の拍手で応じ、インドの各紙は大きく取り扱った。
この安倍構想はいま、米国、インド、豪州、日本の「クアッド」に発展した。15年前に安倍氏の頭にはインド洋、太平洋にわたる対中戦略が練り上げられていたことになる。戦後に別れを告げる重要な動きは2015年8月14日に発表された戦後70年談話・安倍首相談話だ。活字で賛成の手を挙げたのが早かったせいか私への風当たりも強かった。しかし左右、前後に目配りしてほしい。この安倍談話は学界における研究発表ではない。
毎年8月15日が近づく度に戦前の罪とやらを詫びろと騒ぎ立てる内外の反日勢力に、静かにしてほしいと要求する政治的文書だ。いわれのない戦前批判には終止符が打たれた。以後今日までトラブルは全く起きていないではないか。安倍氏の政治力は熟している。
◆歪な防衛体制を是正
安倍氏の功績の中で特筆大書すべきは、戦後歪なままで現在に至っている防衛体制を是正しようと努めたことだと思う。総じて日本の防衛体制が「普通の国」のそれに及ばないのは、敗戦による衝撃の後遺症が依然として残っている、防衛を怖がる臆病な気持ちの蔓延、政治家にとって票にならない―などいくつもの理由があろう。防衛に手をつけない口実として登場したのが軽武装・経済大国を目指す「吉田ドクトリン」だ。岸田文雄首相は自著の中で自らこのドクトリンの信奉者だと言い切っている。ウクライナ戦争を契機に国際情勢はにわかに慌ただしくなり、日本だけが軽武装だなどと寝ぼけていたらどうなるか、は首相が一番承知のはずだ。
安倍氏は政権を取った翌年の2013年に国家安全保障会議を設置した。首相を司令塔に、官房長官、外相、防衛相の4大臣会合、ときには9大臣会合が開かれ、国家安全保障に関する重要事項および重大緊急事態への対処を審議する。首相官邸が重要な役割を果たす体制をつくり上げた。
おそらく安倍氏が最大の労力を払ったのは平和安全法制であろう。自身の言葉を引用すると、「乾坤一擲の大勝負に出なければならない『ここ一番』。安倍政権にとってそれは二〇一五年に訪れました」である。集団的自衛権の一部を容認する道を開かなければ、日本の防衛力による米軍の後方支援も許されなかった。「内閣支持率を一〇%失ってもなお、私の信念は揺るぎませんでした」(「安倍晋三時代に挑む!」)と書いている。世論の一部を敵にしても国のためにはやる、との気迫を感じる。
◆原点の憲法の根本的改正
戦後時代を脱皮させるには、原点である日本国憲法を根本的に改めなければならない。ロシアのウクライナ侵攻に即時対応し、国防政策の百八十度転換を図ったのはドイツだ。ドイツの変わり身は早い。国際環境の険しさに岸田首相も気づいたのだろう。防衛力の抜本的強化を公約した。英シンクタンク「欧州外交評議会」のマーク・レナード氏は最近のフォーリン・アフェアーズ誌ウェブ版に、衰退する米国の穴をドイツと日本が埋める時代の到来をほのめかす一文を書いた。が、敗戦国の日独両国が一人前のプレーヤーになるのを目前に安倍氏は去った。
安倍さん、親ほど年の違う私が安倍さんの弔文を書くことになるとは夢にも思わなかった。どうぞ安らかにお休みください。
(本稿は、7月12日の産経新聞「正論」欄から許可を得て転載したものです)
竹内久美子 動物行動学研究家・エッセイスト
安倍元首相について様々な高評価のある中、エリート政治家の家系に誕生されたことに私は注目したい。安倍氏ほどその利点を生かすことのできた方はいないと思うのだ。
周知の通り、自民党幹事長などをつとめた安倍晋太郎氏を父とし(その父、寛氏も衆議院議員)、母方の祖父は元首相の岸信介氏、信介氏の弟がやはり元首相の佐藤栄作氏である。
安倍氏の幼いころの写真は、兄の寛信氏とともに信介氏の膝に抱かれているものが多い。安倍氏の回想でも、「安保反対」を叫ぶ学生たちに少しも怯むことがなかった首相岸氏の態度が語られている。
遺伝的な素質を備えたうえにこのような環境に育つことで、自身が人の上に立つ際にどのように振る舞うべきかが会得されたのではないだろうか。
櫻井よしこ氏が『WiLL9月追悼特集号安倍総理ありがとう!』に菅直人氏の対照的な逸話を紹介している。2011年11月14日、横浜で開かれた、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の環太平洋経済提携協定(TPP)において菅首相は胡錦涛主席を前に委縮。メモを読み上げるだけで終わってしまったという。
奇しくもその2か月前には尖閣漁船衝突事件が勃発、映像は11月1日に一部の国会議員に、4日には一色正春氏によってYouTube上に公開されている。そのような事情もあったのだろうが、安倍氏なら堂々とわたりあっていたはずだ。
国を代表し、他国とも対等に接する。そんな当たり前を自然体で演じた安倍氏。政界のサラブレッドであるからこそ可能だったのだろう。
竹田恒泰 作家
安倍晋三元総理の功績は多岐にわたる。そのなかでも、特に皇室に関することを申し述べ、追悼したいと思う。
小泉純一郎内閣が女性・「女系」天皇を容認する皇室典範の改正を試みるなか、秋篠宮妃紀子殿下の御懐妊が発表されたにもかかわらず、小泉総理は典範改正を進めるつもりだった。しかし、総理を全力で説得してこれを止めたのが、この内閣で官房長官を務めていた安倍氏である。その後に成立した第一次安倍内閣では、皇室典範の改正を白紙に戻すことを決めた。
もし、安倍氏がこれを阻止していなければ、皇位の男系継承は途絶するところだった。その功績は後世に語り継がれるべきものと思う。
また、平成から令和への皇位継承は、安倍内閣の偉業の一つとして特筆すべきことである。難題だった譲位特例法を成立させ、即位礼正殿の儀、大嘗祭、立皇嗣の礼などの一連の儀礼を恙なく済ませることができたのは、安倍総理の努力の賜物である。そして、後継の菅義偉内閣で皇位継承を議論する有識者会議が立ち上がり、女性・「女系」天皇を排除した結論が報告されたことで、男系継承の道筋が固まったといえる。
そして、今私たちが慣れ親しんでいる元号の「令和」を決めたのは安倍総理だということも記憶にとどめておきたい。
私たちは皇統護持について、安倍氏の存在に頼り過ぎていたのではないだろうか。安倍氏なき日本において、私たちが一層力を合わせることで、安倍氏に報いていきたい。
竹中俊裕 イラストレーター
安倍晋三様
今あなたを亡くした大きな悲しみと底知れぬ不安で途方に暮れています。
もう私たちのもとにいてくださらないことを思うたびに目眩がする思いです。
あなたがどんなに私たち日本人を愛しみ守ってくださっていたか、どれほど心ない人たちに誤解され誹謗されようと正しき道を貫かれたか、大きく高い視点でまつりごとを為されてきたのか、私たちは知っています。
あなたがいてくださった事で、不安ばかりのニュースに触れても、どこか安心感があり、「いざとなれば安倍さんがいてくれる」と心を落ち着かせる事ができました。
なにか事が起きようとも、きっと政治家の皆さんが安倍さんに相談されて、難局を切り抜けてくださると信じることができました。
しかしこれからの私たちは、あなたに頼ることも、導きを請うことも叶いません。
残された私たちは「安倍総理ならどうするだろうか?」と自らに問いかけながら生きるほかないのでしょう。
私たち日本人は、亡くなった親や師やご先祖様にいつも問いかけ、その御霊に恥じないようにと自らを戒めて生きる民族ですから。
あなたはいま、私たちのゆく道を指し示す神様のような存在になられた気がいたします。
これからの日本のため、どうかこれからも私たちに力と勇気をお与えください。
いつの日か安倍晋三神社ができた折には必ずお参りさせていただきます。
今まで本当にありがとうございました。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
竹本忠雄 筑波大学名誉教授
「信なくば立たず」を銘に道義国家日本の面目を世界に顕揚した安倍元首相が、「信」を五常の最高徳目に掲げたことで中国の儒教思想を打破した聖徳太子の奈良で斃れた――この悲報に接したとき、すぐ頭に浮かんだのはマルローの「私が愛する日本は永遠の日本、即ち奈良の日本だ」との言葉だった。悲劇のかげに何か巨大な車輪が一回転した。歴史的大宰相の死は「日本を取り戻す」原点を啓示してやまない。
「国葬」と聞いて、戦前派の私は山本五十六元帥のそれを想起した。当時、世界中が日本の敵だった。こたびは、世界中から哀悼と讃辞が呈されている。天地の径庭とは、これか。
それだけにまた、残された課題が重くのしかかる。「安倍晋三を総理にする文化人の集い」発起人の一人として私は、氏の第一回総理就任時の靖國神社参拝への消極姿勢をただしたことがあった。これに対して即座に産経新聞一面トップに「後悔している。今度こそは」との決意表明が寄せられたが、結局、第二次安倍内閣のときの一回だけで終わってしまった。それほど反対岩盤層は強固なのであろう。が、元総理の明察した近時必来の台湾即日本有事にさいして、殉国の英霊二百四十六万六千余柱の加護なくして勝利は叶わぬこと必定である。
安倍元首相が果たし切れなかった約束を果たすべき時が来た。霊性文化的見地からすれば、日本の存続はこの一点にかかっている。
田中恆清 神社本庁総長
安倍元総理は確固たる国家観を持ち、連続在任日数、通算在任日数ともに憲政史上最長記録を打ち立て、長らく我が国のリーダーとして私たち国民を導いて来られました。此度の訃報はまさに寝耳に水であり、衷心より哀悼の意を表する次第です。
安倍元総理の御功績は挙げれば枚挙に暇がありませんが、殊に斯界に大きく関はる点で申せば、安倍元総理の下で、長い皇室の歴史・伝統の中で一度たりとも前例のなかった女系天皇への途を開きかねない皇室典範改正議論やいはゆる「女性宮家」創設論議が食ひ止められてきたことであります。
小泉政権下の平成十八年、まさに皇室典範改正が議論されんとする矢先に悠仁親王殿下の御誕生を迎へ、後を受けた安倍総理は即座に有識者会議の報告書を基にした女系天皇の議論を白紙撤回されました。民主党野田政権下の「女性宮家」創設論議においても、皇位継承問題とは切り離すとの答弁を引き出され、政権奪還後は「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重みを踏まへる」との皇室の歴史と伝統に即した皇位継承の在り方を模索されて来られました。このことが「現在の皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」との現政府の方針に引き継がれてゐることは論を俟ちません。
突然の訃報に接しただただ残念でなりません。これまでの数々の御功績にあらためて感謝の意を捧げますとともに、安倍元総理の御霊の安らかならんことを謹んでお祈り申上げます。(正仮名遣、原文のまま)
田中秀雄 歴史家
私が日本の近代史研究を志すきっかけとなったのは三島由紀夫の自決である。十八歳の時だった。大学に入れば、連合赤軍事件が起こった。何でこんな事件が連続するのだろうと、九州の田舎から出てきたイモ学生は思ったのだ。
それから時間も経ち、自分の歴史観も定まる頃、颯爽と登場してきたのが安倍晋三氏だった。自分と二歳しか違わない年下のスマートな政界サラブレッドである。政党としては自民党支持というだけで、特に応援する特別の政治家はなかった。それもそうだ。慰安婦問題でひたすら謝罪するだけの政党に何が期待できようか。
しかし安倍氏や中川昭一氏は違っていた。彼らは骨があるぞと思ったのは同世代という理由だけではない。歴史を素直に研究すると、日本が悪いことばかりした国とは思えない。朝鮮でも、中国大陸でも、南方でも。しかし悪いことをしたという世論は”常識”として、今もかなりの勢力がある。憲法改正が悪いのは、昔の悪い日本に戻るからなのだ。
そうではないと私のように書くだけなら容認されるが、現実の社会や政治に反映させるとなると大変な逆風が吹きつける。安倍氏はこれに果敢に挑んだ。挑まなければ日本は弱体化するだけなのだ。政治家として、様々に思惑の違う人をまとめていく、余人には代えがたい、たぐいまれな現実変革力を彼は持っていた。戦略眼もあった。惜しまれてならない。
彼が「国のまほろば」、奈良市で斃れたのは愛国者の宿命だったのだろうか。
寺島泰三 英霊にこたえる会会長
安倍晋三元首相がとばっちりとも云うべき凶弾に倒れ、亡くなられたことは返す返すも残念の極みであります。
我が国にとっては申すまでもなく、世界にとっても大いなる損失であり、志半ばでご本人もさぞや無念であろうと思いますが、今はただご冥福をお祈りするばかりです。
安倍元総理は、お国のために尊い命を捧げられた英霊の御霊に対しても、殊の外強い尊崇の念をお持ちでした。
第一次安倍内閣時に靖國神社に参拝出来なかったことは「痛恨の極み」と述懐され、第二次安倍内閣においては平成二十五年十二月に敢然として参拝されたのでありました。
令和二年九月、首相退任翌日には退任報告参拝を為されており、その後も春秋の例大祭には欠かさず参拝を続けられておられました。
また、平成二十四年八月十五日、靖國神社境内で行われた英霊にこたえる会・日本会議共催の第二十六回「戦歿者追悼中央国民集会」においては演壇に立たれ、「今日の繁栄した日本の姿は英霊のおかげであり、これに報いるためにも美しい日本を造り上げて行かねばならない」と力強く訴えられた姿は、今でも脳裏に刻まれております。
願わくば岸田総理を始め閣僚や多くの国会議員が安倍元総理の御遺志を継いで靖國神社に挙って参拝頂き、天皇陛下御親拝の途を拓かれんことを期待するものであります。
西岡力 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)会長
北朝鮮拉致被害者の「家族会」とそれを支える「救う会」は平成9年に運動を始めて25年、ずっと安倍晋三元総理大臣と共に歩んできた。平成14年の小泉純一郎首相(当時)訪朝で北朝鮮が拉致を認めるまでは、ほとんど孤立無援の中、拉致は事実だということを内外に発信してきた。その時から、安倍さんは私たちのそばにいた。
平成18年に第1次安倍政権発足と同時に、政府に拉致対策本部を新設し、「拉致問題の解決なしに日朝国交正常化はあり得ない」「被害者が生存しているとの前提に立ち、帰国を求める」という政府方針を決めた。
平成24年、第2次安倍政権ができると、最優先課題として拉致問題に取り組んだ。経済制裁と米国などの国際圧力(軍事圧力も含む)によって北朝鮮の政権を危機に追い込み、北朝鮮最高指導者を日朝首脳会談の場に引き出し、平成14年に一方的に死亡と宣告した横田めぐみさんら8人を含む全被害者の一括帰国を迫るという戦略だった。
安倍さんが主導した北朝鮮への最強度の制裁は今、効果を上げている。金正恩政権は存亡の危機から脱出するために拉致問題での日本との交渉を真剣に検討しているという情報がある。拉致被害者救出はこれからが正念場を迎える。そのときに、安倍さんがいないことは残念だ。しかし、私たちはここでくじけることは出来ない。全ての拉致被害者の即時一括帰国実現のため戦い続ける。安倍さん、これまで本当にありがとうございました。
西 修 駒澤大学名誉教授
私が安倍晋三元首相と最初にお会いしたのは、安倍氏が1993(平成5)年に衆議院議員に初当選したときのことだ。議員会館の安倍事務所で集団的自衛権についてお話をした。「権利はあっても、行使できない」という政府解釈に強い疑念をいだかれていた。
その疑念を解消すべく、22年後の2015(平成27)年9月、それまでの政府解釈を改め、限定的な集団的自衛権の行使を容認する平和安全法制の成立を導いた。私も安倍首相(当時)の諮問機関、いわゆる安保法制懇で同法の成立に向けて発言した。安倍首相はほぼ毎回、法制懇に出席され、ときおり自分の考えを述べられた。成立にいたる過程で野党や一部メディアなどから批判されたが、それに屈しない強い信念があったからこその成就だったといえる。先見の明もあった。同法の成立によって、米国のみならず、多国間との共同訓練を通じ、その有益性が実証されている。
また安倍事務所では、憲法第9条の改正を熱く語られた。とくに自衛隊が合憲か違憲かという神学論争から脱却するべきことを強調され、近年にあっては、憲法に自衛隊を明記することの必要性を唱えられていた。
安倍氏とは、その後、何度かお会いする機会があったが、非常に印象的なのは、優しくて気取らない態度である。このことが、多くの人から支援された大きな理由だと思われる。
安倍元首相の遺志を継ぎ、憲法改正の宿願を達成することが、われわれの責務であるといえよう。
西村幸祐 批評家
小林秀雄は《モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない》と書いた。弦楽五重奏曲第四番ト短調(K516)に触れた、昭和二十一年七月発表の「モオツアルト」の一節だ。
四年前の昭和十七年七月には川上徹太郎の司会で「近代の超克」という座談会が「文学界」で行われ、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄ら文芸評論家や作家、さらに西田幾多郎門下の京都学派の学者らが参加した。知的協力会議と銘打たれたシンポジウムは、真珠湾攻撃から八カ月後の緊迫した時代精神が伝わる。
「近代の超克」というタイトルは、西洋文明との対決が明治以降の近代化日本の宿命だったという共通認識が彼らにあった証左だ。大東亜戦争の位置づけが確かに行われていて、彼らは一九八九年の東西冷戦終了後のハンチントンの『文明の衝突』を半世紀前に先取りしていた。戦局が悪化すると小林は沈黙し、敗戦の約一年後に「モオツアルト」を発表した。
小林秀雄を持ち出したのは、志半ばで凶弾に斃れた安倍晋三氏を想い、モーツアルトのレクエイムを聴いていた時、身をなげうって総理の任期を疾走した安倍氏の哀しさに打たれたからだ。第二次安倍政権発足の翌日、十年前の十二月二十七日に安倍氏が発表した英語論文「アジアの民主的安全保障ダイヤモンド」の通りに世界が動いてきた。嘉永七年の日米和親条約以来、日本が外交的に世界を領導したことは初めてだった。
かつての大東亜共栄圏は挫折し惨禍を残したが、「開かれたインド太平洋」の概念図は、二十一世紀の大東亜共栄圏に他ならない。
三年前に中国系米国人の若き女性学者が安保外交専門誌「ナショナル・インタレスト」に書いた「日本はアジアをリードするか?」という論文は、安倍氏への期待とかつての大東亜共栄圏への客観的評価が書かれていた。最後に安倍氏にお会いした今年三月に、その論文のことをお伝えするのを忘れていた。それも心残りの一つである。
安倍晋三氏のご冥福を心よりお祈りする。
野伏翔 映画監督・演出家
迷走続きの悪夢の三年間と言われた民主党政権の時代に、私は「飛び出せ新選組」というシナリオで、演劇公演と2012年には劇場用映画の監督も務めた。この原作は近藤勇や土方歳三というお馴染みの新選組の隊士たちが池田屋に踏み込んだところ、タイムスリップして現代に飛び出してきてしまうという桑原譲太郎のトンデモ喜劇なのだが、私は現代に現れた新選組の猛者たちが拉致問題の存在を知り「下手人が分かっていながらなぜ斬らぬ!」と、ふやけた現代人に迫る話に書き換えた。
そして堕落した現代においてもただ一人、横田めぐみさんたち拉致被害者救出のために奔走する正義の政治家を、戸部晋三元総理大臣とした。「戸部」は勿論「飛べ」の意味である。小野寺昭が好演した。対する悪徳政治家大沢一郎は、新選組を利用して戸部晋三を暗殺させようと企むが「わしは中国野戦軍の司令官だぞ!」と威張ったため「何、中国とな!やはり貴様は長州の犬であったか!」と近藤勇に斬られてしまう。……と安倍晋三元総理には私なりの応援もした積りである。
「安倍がー!安倍死ね!」と罵っていた者たちは安倍さんの顔にちょび髭を書いてヒットラーに似せて揶揄したものだが、私に言わせればそれは到底無理なキャスティングである。もし安倍さんが歴史上の人物を演じるならば、何と言っても日出処の天子、聖徳太子である。この役にはまる俳優は他に見当たらない。
和をもって尊しとした安倍晋三元総理のご冥福を心よりお祈り申し上げたい。
長谷川三千子 埼玉大学名誉教授
安倍晋三さんといふ方は、本当に特別な方だつたのだなあ、とつくづく思ふ。亡くなられた今、腹の底からそれを実感する。
ふつう、人は死んだら居なくなるものだ、と誰もが考へる。私もさう考えてゐた。その思ひ込みをくつがへされたのは、十八年前に主人が亡くなつたときのことである。主人は確かに死んでお骨になつてゐるのに、少しも居なくなつてゐない。声が聞こえるわけでもなければ、姿が見えるわけでもないけれど、ただ居なくなつてはゐないのである。とても不思議で、とても自然な感じであつた。きつと、永年ともに過してきた夫婦だからなのだらう、と思つてゐたのである。
ところが、今回の安倍元総理の暗殺事件に際会して、最初に感じたのが、この〈居なくなつてゐない〉といふ確信であつた。それは、驚きや悲憤といつた感情すべての底に、どつしりと根をおろした感覚なのであつた。とりたてて長いおつき合ひがあつたわけではなく、何度かお目にかかつたことがあるにすぎない。それでも、なにか特別なもののある方だといふことは、充分に感じ取ることができた……。
おそらく、あの的はづれな暗殺者をひき寄せたのも、それだつたのであらう。ちやうど闇夜の燈火にひき寄せられる蛾のやうに、彼らはそこに飛び込んでくる。しかし、いかなる暗殺者も〈死んでも居なくならない人〉を滅ぼすことはできない。安倍晋三さんといふ方は、さういふ最強の特別の人なのである。(正仮名遣、原文のまま)
長谷川幸洋 ジャーナリスト
安倍晋三元首相が亡くなった。「志半ばの非業の死」だった、と思う。その死から、しばらく経ったが、私はいまも朝、目が覚めるたびに「ああ、もう日
本には、安倍さんがいないんだ」と気がついて、愕然とした気分になる。
私は事件の後も、次々とやってくる締め切りに追われて原稿を書いたり、発言してきたが、心の底では、ぽっかりと大きな穴が開いたままだ。この喪失感は、言葉で表しようもない。おそらく、多くの人が同じような思いにとらわれていることだろう。
失ってみて、あらためて気づく。安倍元首相は、文字通り「日本の大黒柱」だった。
大黒柱を失った日本は、これからどうなっていくのか。
参院選は「弔い合戦」の趣も手伝って、自民、公明の与党が大勝した。だが、すべてはこれからだ。岸田文雄政権は憲法改正に意欲を見せているが、はたしてどうなるか。なかでも焦点は、憲法9条の扱いである。
安倍元首相がもっとも心配していたのは、中国が台湾や尖閣諸島に侵攻する事態だった。そのときになってから、慌てても遅い。日本は9条を改正して、集団的自衛権のフル行使を認め、アジア版NATO(北大西洋条約機構)のような、新たな同盟関係の構築を目指すべきだ。
内政も心配だ。岸田政権は財務省の圧力をはねのけて、大胆な財政出動や減税、さらには金融緩和路線を継続できるか。残された私たちは、安倍元首相の遺志を引き継がねばならない。
濱田浩一郎 歴史家・評論家
令和四年七月八日、安倍晋三元首相が、選挙演説中に銃撃を受けて亡くなるという悲しむべき出来事が起きました。先ずは、安倍元首相の御冥福を心からお祈り申し上げます。
安倍元首相の首相在任中の大功績の一つは、価値観外交・地球儀を俯瞰する外交を展開し、東南アジアほか世界の様々な国々を歴訪、諸国と強固な関係を築いたことでしょう。安倍元首相が退任されてからも、各国首脳が「安倍は何と言っている?」と麻生太郎氏に聞いたという逸話は、安倍元首相の外交の成果と影響力を示していると思います。米国大統領とも良好な関係を築いたことも大きな成果でした。
そして、安全保障の分野では、日本版「国家安全保障会議」構想を推進。
憲法解釈変更を閣議決定し、集団的自衛権の行使を容認したことも戦後の安全保障政策の転換点となるものでした。数々の偉業を成し遂げてきた安倍元首相でしたが、まだまだやり残したことはあったはずです。尽力されてきた日本国憲法改正や、北朝鮮による拉致被害者の奪還を、その目で見ることができなかったのは、さぞや心残りだったと思います。
中国の軍事的脅威の増大、台湾有事が想定されるなか、安倍元首相を失ったことは日本のいや世界の損失です。まだまだ日本のために活躍して頂きたかった。衷心からそう思います。
安倍元首相のご遺志は、微力ではありますが、私も受け継いで、憲法改正や歴史問題などの言論活動を今後も展開していきたいと念願しています。
浜畑賢吉 俳優・大阪芸術大学教授
今春、デスクの整理をしていて「自由民主党総務会長安倍晋太郎秘書安倍晋三」という一枚の名刺を見つけました。実は当時劇団四季がお世話になっている方の結婚式が下関であり、私は劇団代表の代理で出席。父上の代理で来られていた晋三さんにお会いしたのです。以来政治家としての成長を楽しみに見守って来ました。
戦後の自虐史観という暗いトンネルに押し込められた私たち世代。
日本がやってきたことは全て悪であり、文化芸術は低俗であると信じ込まされたのです。四十歳過ぎて気が付くまで、長い悪夢を押し付けられました。
歴代の政治家もそんな屈辱の中で苦しまれたことでしょう。各国首脳が集まるG7のような会合でも、「経済力があるからまあ仲間に入れてやるか!」という程度に、あまり相手にされていなかったであろうことは全員が並んだ写真を見てもわかります。
安倍晋三総理になって初めて対等であることを欧米が認めてくれたのです。駆け引きと謀略のさ中にいる各国を相手にするには、誠実であり嘘つきであり、人間味に溢れていてしかも冷酷であり、それをさりげなくやり遂げる信念と共に、一級の役者としての演技力が必要です。我々国民の屈辱をはらして下さった安倍さんは、間違いなく世界に誇れる名優でした。国葬は「死して尚国に尽くす!」安倍さんの大きな置き土産になるはずです。
平川祐弘 東大名誉教授(比較文化史)
※お名前の「祐」の文字は、正しくは(しめすへん)が「示」
安倍晋三元首相は、外交において抜群であった。同時代に氏に及ぶ人はない。国際場裡に通用するという意味で伊藤博文以来の大政治家である。伊藤も安倍も英語演説で相手を沸かせた。二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めてワシントンで上下両院議員を前にスピーチした。情理を尽くした安倍演説は満堂の喝采を浴びた。
その国際感覚はいかに磨かれたのか。それが知りたい。新聞に目の仇にされた岸信介の孫は、マスコミを疑いつつ育った。それだから『朝日新聞』の主張を繰返すことで人気を博す民主党領袖の軽薄さ加減にすぐに気づく。父安倍晋太郎外相の秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したばかりか、日本の立場を外国人にも理解させる骨も体得した。外務省の栗山・小和田といった秀才は、相手の言い分の理解にはすぐれたが、彼らは自分から『戦後七十年安倍談話』のようにきちんと日本の立場を主張できなかった。
それは東大の英才教授も同じで「国際化」とは先進国へ学びに行くことであった。
知的一方通行の時代には価値判断の基準は先方にある。しかし外国語は先方から知識を採り入れるためだけでなく、私たちの主張を外国へ伝えるために用いることでもある。対話し相互化することで、政治も学問も真に生きたものとなる。ちなみに同盟とは有事に際し、受動的に保護されるだけでなく能動的に保護すべきことである。
安倍晋三は世界の舞台に立って位負けのしない一大政治家であった。
平田隆太郎 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)事務局長
2002年9月17日の日朝首脳会談は午前と午後の2回準備されていた。拉致問題で最も印象的なことの一つは、昼食の席で安倍晋三官房副長官が、「午後の会談で拉致を認めないなら席を立って帰りましょう」と小泉総理に毅然たる対応を求めたことだ。
すると北朝鮮側は午後の会談で、金正日がいきなり拉致を認め謝罪した。そして5人だけであったが、拉致被害者が帰国することになった。北朝鮮側の態度の急変は安倍副長官の話を盗聴していたからだろう。
しかし、「5人とその家族だけ」というのは、日本側が到底納得する決着ではなく、20年経った今も多くの拉致被害者が帰国できていない。そして、国際社会も国連が決めた厳しい制裁を北朝鮮にかけ、日本だけは人道援助すら禁止して最も厳しく対応した。さらに当時は外務省が拉致問題については関心が少なかったが、その後拉致問題対策本部が内閣府の中に作られ、日本人拉致問題を初めとして様々な北朝鮮情報を集めるようになった。
日朝首脳会談後の日本の対応では、安倍総理が先頭に立って様々な制裁法を作り、また米国等との首脳会談では必ず拉致問題に理解と支援を求めた。特に米朝首脳会談でトランプ米大統領が安倍総理の意を受けて拉致問題の解決を迫ったことも印象に深い。
安倍総理は戦後の総理大臣の中でも、最も傑出した総理大臣の一人であったと確信している。謹んで哀悼の意を捧げたい。
藤島博文 日本画生・日本美術展(日展)会員
山河美しいこの母国から安倍さんは忽然と去った。私たちは、世界的日本の大政治家を宗教がらみの怨念で失ってしまった。後世の人々は、「この日より日本国が栄枯盛衰どちらに向かったか」を語るであろう。
私が安倍さんに初めてお会いしたのは官房長官であられた二十年前、総理官邸の正面玄関に掲げられた拙作をご高覧頂いた時である。あの日のにこやかなお顔の一葉は今日も画室に残る。
そして九年前、日展に昭恵夫人をお招きしご案内申し上げ、その後、書家の御母上洋子様と日中友好展でご一緒し、優雅で品位あるお作品を拝見させていただいた。
先日追悼のテレビに御夫人と仲良く墨画を描くシーンがあり、御母上様共々に芸術を愛する一家であられたことを知った。ならばなぜもっとお近づきになり、尊い日本文化美の発信をお伝えしなかったのかと悔いた。
子曰く「君子は怪・力・乱・神を語らず」只学問をこそ、と説いた。仏典にも「色相荘厳」即ちきらびやかな形に惑わされず直視し、僧の衣なんぞは質素な糞尿衣を纏い、と教えている。人類は科学を持たない頃より人間の心のありようだけは厳しく戒めたのである。
このような文化・学問資源は無尽蔵なのに、なぜ今、国を憂い志を高くする世とならないのか。それのみか人心荒廃の苦界より湧き出る濁流は、各界共、歴史上最低ともいえる精神力低下を招き、ついに一国の最高指導者をも倒した。外敵の防衛も大事だが、今こそ心なる内敵の防備にも国民一人ひとりが立ち向かわなければならない。
「美しい国づくり」の先駆者、
安倍さんはもういない……
ペマ・ギャルポ 拓殖大学客員教授・岐阜女子大学名誉教授
史上最年少で総理大臣に就任し、最長の在職記録を果たし、数々の功績を遺した戦後日本が生んだ偉大な指導者が卑劣な犯罪者によって暗殺された。その衝撃は、電撃的に世界中へ伝わり、即日、インド政府は、翌日を全国において半旗を掲げ喪に服す日とした。ヒマラヤの奥地のブータン王国においては同様に翌日を喪に服す日に設定し、早朝から国王自らが先頭に立ち、各寺院や家庭で何万灯という燈明を上げ、称名し、日本国民と共に悲しみを共有した。
同様のかたちで世界中が喪に服した。世界各国の元首や首相たちがご遺族や日本国総理大臣宛てに弔電などを送り、「世界にとって大変な損失である」「卓越した調整能力の持ち主であった」「日本を愛し、世界の平和をグローバルな視点で構築するために貢献した」「先見性と実行力のある指導者であった」「二度とこのような偉大な人物は現れないだろう」などと、如何に安倍元首相が現代社会において卓越した指導力を持った稀代の政治家であったかを称賛するとともに哀しみを表明した。
安倍元首相は、「美しい国日本、誇りある日本、50年、100年の荒波に耐えうる日本」を使命としてその基礎をしっかりと作った。その実現のために「自由で開かれたインド太平洋」「QUAD」を提唱し、自由・人権・法の支配を重んじる国際秩序の構築に貢献した。また、慈悲深い安倍元首相は、チベット・ウイグル・モンゴルなどの問題にも真剣に接してくださった。心から感謝とご冥福をお祈りいたします。
保積秀胤 大和教団教主
七月八日、参院選遊説中凶弾に倒るの驚きの報道が国内外に走った。日本にとり世界の国々にありてもかけがえのないリーダーを失った。米国、中国、ロシアを始め何れの国の代表者と相交えても何ら臆することなき姿は日本歴代総理を超えるものであった。
その姿は日本の国を愛し、天皇陛下を真中に仰ぐ尊き国柄への絶対の信と誇りをもたれての姿でもあり、その姿にこそ敬意と信頼を得るものであった。
祈りの一文に、「現身こそ身退りては土に帰り霊魂は常久に消ゆる事無くて神と為るものにしあれば」と。この祈りのごと安倍晋三元総理の現身は幽身となりしも、その精神は消ゆることなく、我が国を護られ私共を力強く導かれるであろうことは誰しもが信念すものであろう。此の世では為し難きものでも彼の世では為し得る力となるを。
安倍晋三元総理の国を愛する精神、国民を護る精神の霊種は必ずや多くの人々に引き継がれ育ちゆくものと断ずるものである。
北朝鮮拉致問題にてもその解決の為に日夜努められてこられた。
私共教団も新宗連加盟教団の理解と協力を得て、国民の多くの人々に知らしめるべく活動を展開、再々の政府への嘆願をさせて頂いた。平成二十九年三月十五日には、首相官邸にて安倍総理に「北朝鮮による日本人拉致被害者の即時帰国を求める要望書」をお渡しさせて頂いたことは、今後の活動のお守りとするものである。
これよりも神成就の力強きお導きを乞い祈むものである。
松井嘉和 大阪国際大学名誉教授
世界の多数の国々が異国の現職ならぬ元首相の逝去に深い敬意の籠つた弔意を寄せたのはなぜだらうか。平成二十七年の米国連邦議会での安倍氏の演説が歴史修正主義者だとの風評を吹払ふ程の感銘を与へたとは仄聞してゐたが、その他の国々での安倍氏の演説とその評価がわが国で殆ど報道されないことには奇異の感が消えない。
拉致事件に最も真摯に対応したのは代議士ならぬ元外相の厳父の秘書であつた安倍氏だと聞いてゐる。当時、報道も行方不明者と表現するだけで、「ら致」と言ふやうになつたのは、平成十四年小泉訪朝で彼国が拉致を認めてからだ。
しかも、被害者の帰国は一時帰国の約束だと主張したわが外務省の高官がゐたことには唖然とした。安倍氏なかりせば、掠われた人々は故郷帰還はならず、地獄へ戻されてゐたのである。
曾てポーランドで八ヶ月間ポーランド語を学んだ時、同じクラスにゐた北鮮の青年は一九三九年のソ連のポーランド侵略を信じようとせず、「社会主義者がする筈がない」と言つてゐた。それはまたわが国の政治家の拉致事件の認識だつたのではないか。
安倍氏は「筈がない」とする迷妄を打破してくれたのだ。なぜそれが可能だつたのか。昭恵夫人が言及された吉田松陰「留魂録」の四時の説そして安倍氏が在野の時、昭和天皇の次の御製で講演を結んでをられた意味に解答を求めて慰霊を果したいと思ふばかりだ。
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ
松ぞををしき人もかくあれ
(正仮名遣、原文のまま)
松浦光修 皇學館大学教授
安倍さんの葬儀のさい、昭恵夫人は、あいさつの最後に、「種をいっぱいまいているので、それが芽吹くことでしょう」とおっしゃいました。いうまでもなく、その言葉は、安倍さんが尊敬していた吉田松陰の『留魂録』の一節を踏まえたものです。『留魂録』といえば、私は平成二十四二月、安倍さんに自著『新訳留魂録』を、直接お渡する機会があったのですが、安倍さんは本を見るのと同時に「あっ、松陰先生の本ですね」とおっしゃいました。あくまでも「先生」なのです。
令和元年七月、伊勢におこしになったさいにも、こういう話があります。安倍さんと若者たちとの昼食会があったのですが、安倍さんは、若者たちに次々と語りかけていかれ、やがて私の教え子の女子学生の番がきて、彼女が「私は、松浦先生のもとで、松陰先生の勉強をしています」と言うと、安倍さんは、隣にいた三重県知事(当時)・鈴木英敬さんに「今、”松陰先生”って言ったよね!」とおっしゃり、急に元気になられました。
そして、そのあと予定を三十分ほどオーバーして、語りつづけられたのです。その時、安倍さんは、暗記されていた松陰先生の和歌を、若者たちの目の前で朗誦までしてくださっています。
松陰先生は、高杉晋作に「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」と書き送っています。その時、若者たちに安倍さんは、「私には松陰先生のマネはできない」とおっしゃっていましたが、きっと今ごろ、天上界で松陰先生は、安倍さんを「不朽の人」として、お迎えてくださっているのではないか、と思います。
松尾新吾 一般社団法人九州経済連合会名誉会長
安倍元総理の著書『美しい国へ』とそれに続く『新しい国へ』に接したとき、とりわけ「戦後レジームからの脱却」については、刮目すべきテーマであると感じました。筑波大学名誉教授の竹本忠雄先生は『日本の息吹』(平成9年9月号)の中で、「およそ一国が独立国と言えるためには、三つ(国防、教育、祭祀)の自由がなければなりません。(中略)日本に、このなかのどの自由もありません。」と述べられています。
私自身もそうした日本の現状を憂い、憲法改正をはじめ、真の独立国としての課題を自分なりに模索しておりましたので、安倍元総理が掲げた「戦後レジームからの脱却」は、まさにこの三点における日本の施策の未熟さを鋭く指摘したもので、今後の日本のあるべき姿、進むべき曙光を得た思いでした。
以来、安倍元総理の言動に注目しておりましたが、いたずらに反論や反発を招くような表現を避け、常に事の本質に目を向け、実現に向けて的確かつ適切に指導なさる姿に、本物の政治家として、あるいは日本のリーダーとしての情熱を感じ、大いに期待をしておりました。
突如としてこのような事態となったことは惜しんでも余りありますが、私も含めて、安倍元総理の理念や遺徳を偲び、志を共にする国民は少なくないと思います。長きに亘る戦後の呪縛から解放され、世界に燦たる真の独立国となることを目指して努力することを誓い、追悼の言葉と致します。
どうか安らかにお眠りください。
松木國俊 朝鮮近現代史研究所所長
安倍氏は日本の希望の星だった。戦後日本人の心から奪われた「大和民族の自信と誇り」を取り戻す力を有した希代の大政治家だった。
思えば安倍氏ほど罵詈雑言を浴びせられた首相はいなかった。
「安倍を叩き切る」と凄んだ大学教授もいた。だがそれこそが彼が大宰相たることを証明していたのだ。日本を立て直すためには、揺るがぬ決意と信念を持ってあらゆる妨害を打ち破らねばならない。安倍氏は日本のために命がけで戦い続け、ついに凶弾に倒れて帰らぬ人となった。
彼の死は韓国でも大きく報じられた。そこでは「歴史を歪曲して慰安婦強制連行を否定した人物」「軍国主義の極右政治家」等々安倍氏への非難で溢れていた。ネット上では安倍氏の死に対して「いいね」のクリックが圧倒的多数であった。
なぜ彼はこれほど韓国から嫌われたのか。以前の日本政府は韓国が声を荒げればすぐに謝罪した。河野洋平氏は慰安婦強制連行という「嘘」まで認めて韓国に頭を下げた。村山談話や菅談話を発表し、自国の歴史を一方的に貶めて韓国のご機嫌を取ってきたのだ。しかしながら安倍氏は違った。韓国が「嘘」の歴史を日本に押し付けてくるや、これを毅然と跳ねのけた。安倍氏がこれほど憎まれたのは韓国を相手に日本の国益を守り抜いた証左なのだ。
これからは護国の星となって永遠に日本を守ってくれるだろう。
安倍さん本当にありがとう。あなたの志を継いで私たち日本人はきっと立派な国をつくります。
松田良昭 日本会議地方議員連盟会長(神奈川県議)
7月6日横浜│安倍晋三先生の街頭演説は雄弁にたくみに聴衆をひきこんで行く。「そして、憲法改正ですが」と区切り、明快に解説。「米国が作った憲法をあなたが変えるのです」と力強く改正を訴えられた。お帰りの際に「8月の会でお会いしましょう」「そうですね、また」―それが先生との最後の会話となってしまいました。
安倍先生には地議連に対し大変に親身にしていただきました。年次総会や全国各地区の会合にご出席いただきました。わけても、地議連10周年、アジア地方議員フォーラムにご参加されたときは、一人一人と握手され、参加者全員との写真撮影に応じていただき、アジア各国から参加した議員が「世界のアベにお会いできた」と大感激だったのでした。今年8月には、その関連の会にご参加いただく予定でした。
6月、先生の事務所に伺い、来年の統一地方選を目指して全国から「憲法改正実現行動委員会」を立ち上げたいと申し上げると、発会式にはご出席頂けるとお約束もいただいていた所でした。
未来を見つめ、日本のあり方に思いをいたされた偉大な政治家、安倍晋三先生。7月8日、全く不条理な非業の死を遂げられました。愕然とし、茫然自失でした。しかし今、私たちは乗り越えなければなりません。安倍先生の遺志を受け継ぎ、必ずや憲法改正を成し遂げなければなりません。
先生、どうか日本をお見守りください、ご冥福を心からお祈りいたします。
マンリオカデロ サンマリノ共和国特命全権大使駐日外交団長
7月、安倍元総理があのような形で命を落とされたことは本当に残念で仕方がありません。
彼は日本で一番長く総理大臣を務められましたので、私もサンマリノ共和国大使として、また駐日外交団長として、お目にかかる機会が多くございました。思い出深いのは、日本語を話す大使を招いての昼食会を年に1回主催して下さっていたことです。
日本語を話す大使は常に20人以上いらっしゃるので、とても良いコミュニケーションの場となり、温かい関係が築かれておりました。
安倍元総理はとても謙虚な方で、えばっていないし、おもてなしの気持ちの強い方でした。
本当にお若いのに残念です。日本にとって宝物のような方でした。
日本の皆様に心より哀悼の意を表します。
安倍元総理のお母様の洋子様には、サンマリノ共和国に2014年に創建されたサンマリノ神社の建立式典の際に、現地までお出ましいただき、ご挨拶も賜りました。
ですので、安倍元総理には、新型コロナウィルスが落ち着いて、来年あたりにご夫妻でサンマリノ神社にお参りをしていただきたかったですし、実際そのようなお話も出ていたのです。
まだ私の心の中で整理はつきませんが、安倍元総理の温かい笑顔を忘れずに、生きていきたいと思います。そして御遺志を引き継ぎ、日本とサンマリノの良好な友好関係が引き続き保たれるよう努力していく所存です。
水落敏栄 一般財団法人日本遺族会会長
安倍晋三元内閣総理大臣に対し、戦歿者遺族を代表し、衷心より哀悼の意を表し、感謝の言葉を捧げます。
安倍元総理の卓越した手腕は、崇高な思い「英霊に対する感謝」から育まれたものだと私は確信しています。
我が国の今日の平和と繁栄は、先の大戦で祖国のため、尊い生命を犠牲とされた三百十万余の礎の上に、ひたすら平和を求め歩み続けた先人のたゆみない努力によって成り立っている。この歴史を常に胸に刻み、行動されたのが安倍元総理であります。
内閣総理大臣として靖國神社を参拝され、遺骨収集推進法の整備、中断していた地域でのご遺骨収集の再開や、DNA鑑定の強化、戦歿者の遺留品返還事業など、強いリーダーシップで後押ししてくださいました。こうした国家存立の基本である英霊への感謝と世界平和を願う姿勢が、我が国はもとより、世界中で共感、支持を集めた所以であると存じます。
戦後七十七年が経過し、国民の九割が戦後生まれの今日、戦争の記憶は風化される一方で、世界では紛争が絶えず、今この瞬間も罪のない命が失われ続けています。何よりロシアのウクライナ侵攻は、愚かな指導者により簡単に戦争が始まることを示しており、我が国にとっても決して対岸の火事ではありません。
私は政治とは「平和を守ること」に尽きると思います。安倍元総理の崇高な理念が、多くの政治家に引き継がれることを願ってやみません。
宮家邦彦 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹
日本にとって、戦後外交・安全保障政策を劇的に進化させた安倍晋三元首相の死ほど大きな損失はない。安倍氏の最大の功績は日本の外交・安保の政策決定過程を抜本的に変えたことだ。その場しのぎの一時的・受動的対応ではなく、常に「日本が今何をすべきか」を考えていた。安倍氏ほど国家観と戦略観を持った政治家は他に思い付かない。
安倍外交の本質は日本外交を「グローバル」に考えることだった。
安倍氏は日米、日中といった二国間関係だけでなく、欧州、中東・アフリカ、東アジアなど世界各地域の地政学的相関関係を常に考えていた。その上で、日本の対外的国益を最大化すべく、文字通り世界を股にかけて東奔西走した。だからこそ、世界各国から大きな信頼と尊敬を集めたのだ。
戦後長く日本は軽武装と日米安保依存による経済成長重視政策により繁栄を享受することができた。しかし、東アジアの安全保障環境が激変しつつある今、日本が国家として生き残るためには「商人国家」からの脱皮が必要だ。そのため、安倍政権は日本版NSCの創設や、日米同盟をより「相互的」なものにする安保法制立法と憲法解釈変更などを強力に進めた。
安倍首相は海外で多くの人に愛され、尊敬されていた。日本政府の元首脳の動静がこれほど注目されたケースは他にないだろう。安倍首相の死により日本が失ったものはあまりにも大きい。改めて、安倍元首相のご冥福をお祈りしたい。
宮崎正弘 評論家
志半ば、たとえ兇弾に仆れても、その精神は受け継がれる。
訃報に接し、橿原で亡くなったという旅程。政治的な軌跡を辿りながら私はすぐにヤマトタケルを連想した。
武勇に優れ知略に富む才能を活かせと、熊襲と出雲へ出発。敵を退治して凱旋したヤマトタケルに景行天皇は続いて東征を命じた。
ヤマトタケルは草薙剣で駿河国造の襲撃を切り抜け、相模で愛妻弟橘姫を喪うも常陸国の新治まで行軍した。帰路、甲斐の酒折で歌を詠んだ。
尾張で油断が出て草薙剣をおき、伊吹の賊を退治に行く。不意に襲撃され重傷を負い、伊勢の能褒野でみまかった。ヤマトタケルは白鳥となって古市をめざした。絶命の前に遺したとされる歌は
「大和はくにのまほろば
たたなづく 青垣やまごもれる 大和しうるわし」。
現代日本の強き指導者は奈良の北辺で撃たれ、橿原に没した。ここは神武天皇即位の地であり、英雄の陵が造成されている。
わがくにの肇国の魂が呼んだのだ。
昭和四十五年十一月二十五日、夜半に関西は雨に見舞われた。保田與重郎は文豪の諫死を憂い、その夜雨を「神々の涙」と比喩した。
安倍晋三は三島由紀夫の辞世を諳んじた。増上寺から永田町を巡回した葬列に雨がふりかかった。古代の神々の涙だった。
モーガン・ジェイソン 麗澤大学准教授
日本国は偉大なる国家である。
例えば北畠親房は『神皇正統記』で「大日本者神國なり」と書いて、他の「國」とはっきり区別して日本の特別さを強調した。日本の国旗(日章旗)と旭日旗は、その輝かしい国家のイメージを見事に表す。日本は、日の出ずる国、誇るべき国である、との考えは日本人にとって日本史を通じた大前提だった。
しかし、第二次世界大戦に破れた日本は、日本弱体化政策によって、日本人の「大前提」を転覆させられてしまった。結果、旭日旗は日本国から消え、日本は、恥じるべき国だ、というムードが広がった。謝罪、反省、妥協、主権の譲歩などを繰り返す卑劣な政治家の言動が日本国に暗い影を落とした。
そのような中、ヴィジョンを持った一人の男が登場した。向かい風にあっても鉄の意志を発揮し、いくら叩かれても、決して諦めず、日本のために心身を尽くした男。
努力と粘り強さで、少しずつ、戦後の暗さを祓い、日本国を再び出ずる太陽に向かわせるという使命を果たした男だ。
その男の名は、安倍晋三。史上最長の首相在任を記録した男である。彼は愛国者だった。憲法改正などの挑戦で、「日本はダメな国」という戦後の大前提を、「日本は誇るべき国」という本来の大前提に戻そうと努力した、旭日旗に相応しいリーダーだった。
彼が残した遺産として、日本人が胸を張って日本国を誇れることが永遠に続きますよう、安倍さんを思い起こして、御魂の安らかな憩いのためにも、心からお祈りを捧げます。
百地章 国士舘大学客員教授
現職の首相として初めて「憲法改正」を公言し、本気でその実現の為に取り組んでこられた安倍晋三元総理が、志半ばで非業の死を遂げられた。いよいよこれからという時でもあり、その国家的損失は余りにも大きく、只々、悔しく悲しく無念に思う。
安倍総理に感謝したいことは山ほどあるが、その一つが靖國神社公式参拝である。
平成25年12月26日、安倍総理は首相として初めて靖國参拝を行われた。
21日の段階では「年内見送りの公算」との報道があり、今回は無理かと思われた。しかし諦め切れず、25日付けの産経新聞「正論」で「首相は英霊の加護信じて参拝を」と題し、「年内にぜひとも参拝していただきたい」と書いたその翌日のことである。もちろん偶然の一致だが、喜びは一入であり、靖國神社から連絡を戴いて直ちに到着殿に向かい、回廊の陰から安倍総理の参拝を見守った。翌日の「産経抄」には「安倍総理の肩を押してあげたのではないか」とあった。
令和2年8月12日、「正論」欄に「靖國に再びの賑わいと首相参拝を」と執筆した際は、衆議院議員の古屋圭司氏から電話があった。
安倍総理に話したところ、総理も読んでくれていた由、そして安倍さんはダメだったら「駄目だよ」とはっきりいうが、今回は何も言わずじっと考えておられた、とのこと。持病の再発による辞任を前に、最後まで参拝の可能性を模索して戴いたことが分り、嬉しかった。
今はただ、安倍元総理による天界からの日本国のご守護と私どもの改憲運動のお導きを願い、朝晩祈り続けている毎日である。
八木秀次 麗澤大学教授
第二次政権発足から間もない二〇一三年二月、訪米中の安倍氏は戦略国際問題研究所(CSIS)での講演で「ジャパン・イズ・バック(日本は戻ってきた)」と述べた。
民主党政権を経て日本は二級国家になってしまうのかとの懸念に、そうであってはならない。日本は国際秩序のルールのプロモーターであらねばならない。国際社会に多くの善をなすために強くなければならない。経済も国の守りも強くなければならない。自分はそれらを実現するためにこそ再び首相になったのだとし、「わたくしはいま毎朝、大いなる責任の意識を重々しくも醒めて受け止め、目を覚ますのであります」と述べた。
その後、アベノミクスや集団的自衛権限定行使容認による日米同盟の深化、「自由で開かれたインド太平洋」構想や日米豪印の「クアッド」など、多くを成し遂げた。
戦後七十年談話では「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と謝罪の歴史を断ち切り、悪しき戦争をした国として贖罪意識を持つのではなく、世界の平和と繁栄に貢献する国として誇りが持てるようにした。
日本は信頼される国際社会の主要プレーヤーとなった。米誌タイムは安倍氏の功績を「世界における日本の地位を塗り替えた」と称えた。
私もともに取り組んだ教育再生や皇位継承問題、夫婦別姓・LGBTなどへの思いも同じだった。憲法改正もそうだ。安倍氏は「誇りある日本」を取り戻そうとしていた。
安本寿久 産経新聞特別記者編集委員
平成18(2006)年9月26日のことは今でも鮮烈な記憶である。この日、安倍晋三氏が90代内閣総理大臣に就任し、第1次安倍内閣が誕生した。戦後最年少の52歳、戦後生まれで初めての首相は、目指す国家像として「美しい国」を提示した。これもまた鮮烈だった。思うに、戦後の歴代首相が目指した国家像は、平和な国であり、豊かな国であり、ひいては大きな国だった。いずれも客観視でき、数値で例示できる目標である。が、美しい国とは…。3か月も経たないうちに首相の胸の内が見えた。教育基本法の改正と防衛庁の省昇格を実現したからだ。
改正教育基本法は、教育の目標として愛国心の育成を盛り込んだ。首相の肝煎りで発足した教育再生会議は、大学進学の条件として社会奉仕活動の義務化を提唱した。いずれも日本人に生まれた誇りを持つことを教えたいという理念の現れだ。防衛省昇格も、自衛隊員に誇りを持ってもらうために必要不可欠だったが、歴代首相が手を付けられなかった重要政策である。これらを実現しただけでも安倍氏は、戦後史に名を遺す首相だった。
7年8か月に及んだ2度目の首相時代、安倍氏の代名詞は外交になったが、それも美しい国造りの一環だったのではないか。美しい国とは国民が誇りを持つ国、それは世界から尊敬されて初めて可能になる。この道は、憲法改正と共にまだ半ばである。遺志をしっかりと引き継ぎたい。
山岡鉄秀 情報戦略アナリスト・令和専攻塾塾頭
安倍元総理の逝去にあたって、海外からの反響のあまりの大きさに驚いている人が多い。インドやブラジルのように、自主的に喪に服した国まであった。これは安倍元総理がそれだけ足?く様々な国を訪問して関係構築に努力して来たことを意味する。そこにはクアッドに象徴される戦略性があり、かつ、相手の心の琴線に触れる安倍元総理ならではの人間味があった。そして、その世界中に網の目のように広がった信頼関係こそが、日本という国の安全保障だったのだ。
勿論、日米同盟が主軸であったから、トランプ大統領とも何度もゴルフをする関係を築いたし、中露間に楔を打ち込むために、プーチン大統領とも友人関係を築いた。プーチン大統領から感情のこもった弔辞が届いたことがそれを物語っている。このたゆまぬ努力こそが日本の安全保障を担保していたことを日本国民だけが認識していなかった。
安倍元総理とは個人的な思い出もある。2021年5月11日、私は友人のアンドリュー・トムソン元豪州連邦議会議員と共に議員会館に安倍前総理を訪ね、日豪の政治家レベルでの交流の必要性を訴えた。すると安倍前総理は「じゃあ日豪議連に乗り込んでかき回そうか?」と言ってくれたが、一ヶ月後の新聞には超党派「日豪友好議員連盟」が、自民党の安倍晋三前首相と麻生太郎副総理兼財務相を最高顧問に、甘利明税調会長を顧問に起用する方向で調整しているとの記事が載った。有言実行の人だった。
今の日本は舵を失った船と同じだ。
山田吉彦 東海大学教授
安倍総理は、日本の海を愛し、2018年の海の日に発したメッセージの中では、「新たな海洋立国への挑戦」を目指すことを宣言しました。
現在、日本を取り巻く海洋情勢は、安倍さんが政権を担当していた時代に比べ悪化しています。中国は尖閣諸島侵攻の手を緩めず、海上警備機関である中国海警だけでなく、海軍も投入してきました。さらに、中国とロシアが連携し、日本の海域に軍艦を派遣するなど、日本周辺海域は危機的な状況にあります。海洋立国を実現するためには、まず、日本を取り巻く海の安全を確保しなければなりません。
現実を見据えた安倍さんが海洋立国の根幹に置いたのは、海洋安全保障の確立でした。安倍さんは、我が国の周辺海域を取り巻く情勢は過去に例をみないほど厳しさを増していることを認識し、政府一体となり海洋安全保障に取り組むことを指示していました。海上自衛隊、海上保安庁は、全力をもって海の安全を守ってくれています。
その動きを後押し、政府だけでなく、官民一体となり海洋安全保障に取り組むことが必要です。
まず、安倍さんが提案していた尖閣諸島に公務員を常駐させることを政府に求めたい。そして、我が国の領土が守られ、周辺海域の環境や水産資源が保全されることを多くの国民が望んでいます。安倍さんの意思を受け継ぎ、近隣国に対し主権を譲ることなく、国民が安全に豊かに暮らして行けるように、海洋問題研究者として力を尽くして行く所存です。
山村明義 作家・ジャーナリスト
あの日以降、私の心にはぽっかりと大きな穴が開いたままである。「吉田松陰を亡くした松下村塾の塾生のような気持ち」。例えば七月十一日、東京・港区の増上寺で執り行われた安倍晋三元総理の通夜の席で、私はある国会議員とそんな会話を交わした。私たちが後に続かなければならないという意味だ。
周知のように、安倍元総理は在職中も、神道政治連盟国会議員懇談会の会長を務めた。まだ二度目の総理になる前のことだが、数人で神道や日本の八百万の神々のことを数時間話したことが忘れられない。安倍元総理は「あの神様は面白いよね」と、具体的な神様の名前をお互いに挙げながら、日本の神様がいかに日本を守っているかという話題を延々と話した。この思い出も私の一生の宝物だ。
だが、私を含めた大勢の気持ちが晴れないのは、なぜあのような暗殺事件が起きたのかという悔しさと同時に、今となっては安倍総理の心境が聞けないことである。
もし仮に安倍元総理が自分の生き様を吉田松陰に仮託していたとするならば、その心境は、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」(「留魂録」)
というものとなろう。しかし、その心境に何の衒いも恨みもなく、「此程に思定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける」(「吉田家絶筆」)であればやや気が落ち着く。あの世で本人に直接聞いてみないと不明だが、安倍氏の思いは、後世に託されたことだけは間違いない。
屋山太郎 政治評論家
安倍晋三氏が亡くなったと聞いた時の衝撃は今も続いている。毎朝起きるたびに自らに念を入れなければ納得できない。日本にこれほどの不幸が起こったことがあるのか。安倍さんを通じて私はものの考え方、認識の丁寧さを学んだ。
世界は中ソ対自由主義に分裂しつつあるが、安倍さんがそういう認識を持ったのはいつかと聞いたことがある。それがなんと2007年のインド訪問がきっかけだという。当事インド議会で行われた英語スピーチが30回もの拍手で中断された。中国での日本製品排斥が始まりつつある時で、日中はいずれ行き詰まると判じた。「そうだとすれば味方は多いほどいいですからね」という答えだった。07年にインドに目をつけた感度の良さも抜群だ。
最近、台湾問題で私の関係する団体でお手伝い頂いていたが、「台湾」という言葉を使うのは難しい。ところが安倍氏は「台湾有事は日本有事」と表現、一言で皆に本質を語ってくれた。
自民党が野に下っている時、安倍氏はイギリスにわたり、サッチャー氏に教育論を聞いた。かつての日教組は80%が共産党。先生といえば共産党ばかりだった。共産党では自由民主主義体制を作れないというのが安倍氏の信条で、赤い教育界を洗い流してくれた。
今教育界は洗浄されたが、基本は教育界に共産主義者を入場させないことだ。安倍先生の教えを単純明解に守り抜いていくことを誓う。
横倉義武 日本医師会名誉会長
安倍晋三元総理大臣のご冥福を心からお祈りします。
安倍先生を失ったことは、日本国民のみならず世界の人々にとって大きな損失でありました。安倍先生は保守政治家として重要な支柱でありましたが、同時に人々の健康を守り生命を守る社会保障の分野でも大きな支えであり、国民皆保険を柱とする我が国の国民医療のあり方について様々な議論を行ってきました。安倍先生は「国民全てが医療を必要とする時に、自分の負担できる範囲で標準的な医療が受けられるUHC(Universal Health Coverage)」を我が国のみならず、世界中に広げようと活動を続けられていました。
2016年5月伊勢・志摩のG7サミットで「国際保健のためのビジョン」の中に「UHC達成に向けた保健システム強化の調整と支援」がまとめられましたが、この思いは2015年12月に英国で発刊される医学雑誌「Lancet」に投稿された『世界が平和でより健康であるために』に書かれた考えを具現化する第一歩でありました。その中で、『「保健」は根本的に地球規模の課題である。最近のアウトブレイクからも分かるように、各国の協力が必要である。世界は団結し、各国は強靭で持続可能な保健システムを整備し、可能な限り国民の健康水準を向上させなければならない。日本は長年、「人間の安全保障」構想を提唱し、現場での具体的な取組を行ってきた。そしてそれは、我が国の「積極的平和主義」政策の基礎となっている。指導者は、人間の安全保障と平和を実現し、全ての人に健康と福祉をもたらす展望を持って、一層結束し、日本は国際保健のこの新たなモメンタムを盛り上げ、全ての人々が必要なときに良質の保健サービスにアクセスでき、財政的困窮に陥ることなく健康上の脅威から守られるよう、一層の貢献をしていく。』と、世界平和に向けた決意を実行に移されていました。
国際社会が混迷する現在、日本を愛し国際平和を追求する安倍晋三元総理大臣のご遺志を守らなければなりません。
横田拓也 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)代表
安倍晋三元総理の訃報に接し、改めて哀悼の意を表しますと共に、心よりお悔やみ申し上げます。
家族会設立の1997年当時、北朝鮮による拉致事件は「拉致疑惑」と言う扱いでしか捉えられておらず、政治は全く関心を示さず、報道も真正面から取り上げませんでした。家族会は必死に自らの家族や兄弟を北朝鮮から取り戻すために叫び続けましたが、世論は振り向いてくれない苦しい時代が続きました。その様な中で、安倍さんは家族会に常に寄り添って下さり、苦しい心の叫びにいつも耳を傾けて下さいました。家族会の中では「安倍さん」とお声掛けさせて頂けるほど距離の近い方でした。
外交では常に日本人拉致問題を相手国の首脳に語り掛け、問題解決の協力を求めて下さいました。日米関係では、トランプ大統領(当時)との個人的な絆も重なり、トランプ氏が国連総会の演説の中で北朝鮮が13歳の少女を拉致した事を世界中に発信しました。発言をして頂く道筋を描いて下さったのも安倍さんのお陰です。必ず日本人拉致被害者を全員救出させると言う強い政治的信念と人間的な熱い想いが国際社会の理解を大きく前進させた事は間違いない事実です。
横田家個別の事柄では、父滋が2年間の闘病生活の際、訪米直前の忙しい中、わざわざお見舞いに来て下さり温かいお言葉を掛けて下さった事は忘れられない出来事です。言葉では言い表せない感謝です。
私達は主権と人権を重視された安倍さんの志を引き継ぎ、そして必ず拉致問題解決を図ります。安倍さんの思いに応えて参ります。
吉田好克 日本会議宮崎顧問
安倍晋三元総理が凶弾に斃れたことは実に痛ましく、また、警備に手落ちが無ければ防ぐことができたはずと思ふと、無念遣る方無い思ひにさせられます。享年六十七歳。今後益々円熟した政治手腕を発揮できたに相違なく、返す返すも惜しい政治家を失ひました。
私は正直に申し上げて、安倍氏の歴史観にも「加憲」案にも賛同できず、双方についてかなり厳しい批判を書き連ねました(『続・言問ふ葦』高木書房)。しかしながら、「アベノミクス」「クワッド」「自由で開かれたインド太平洋戦略」などで示した経済や外交の手腕は卓越してをり、私もまた賛辞を呈するに吝かではありません。「まれに見る戦略家」であると戦略の国際的大家E・ルトワック氏も言つてゐます。
私は安倍氏と一度酒席を共にしたことがあります。それは十八年前、平成十六年(二〇〇四)三月のことでした。当地選出の代議士中山成彬氏が、ゴルフで宮崎を訪れた当時幹事長であつた安倍氏に私を引き合はせて下さつたのです。私がその六年ほど前から「救ふ会宮崎」の代表として活動してゐたのがその理由でせう。
その時、安倍氏は「吉田先生はまだ助教授なのに表立つて運動をして大丈夫ですか。A先生も助教授のうちは静かにしてゐましたよ」と仰いました。人事の機微に通じた優しい言葉でした。結局、氏が心配して下さつた通りとなりましたが、私のやうに末端の者の身の上まで心配して下さるといふ気配りは昨日今日の付焼刃ではできないと思ひます。人柄といふものでせう。心からご冥福をお祈り致します。(正仮名遣、原文のまま)
若井勲夫 日本教師会会長
日本教師会は昭和五十二年に田中卓会長が教育基本法の教育の目的に欠落してゐる「祖国と伝統、愛国心、正義への勇気」などを補入する改定案を提議し、文相に要望、平成十六年に全文の改正案を政府に提案した。この努力が安倍首相によつておほむね稔つた。
平成十八年四月に小泉内閣が改正法案を国会に提出、同九月に安倍内閣が発足し、必ずしも積極的でなかつた前内閣の態度を改め、論議を加速させ、十二月に成立し、施行された。以下、首相の国会答弁と私見を付す。
「法律の改正が憲法改正の時期との関連で制約を受けるわけではない」│同法の改正が憲法改正への道を開くとも認識されてゐた。
「我が国を愛するとは歴史的に形成されてきた国民、国土、伝統、文化などから成る歴史的文化的な共同体としての我が国を愛するという趣旨」で、「我が国と郷土を愛する心の態度は一体のものとして養われる」│「国」は統治機構(時の政権)を含むかといふ質問に反論。国と郷土を結び付けたことが重要。
「改正は将来に向かつて新しい時代の教育理念を明示する歴史的意義を有する」「志ある国民が育ち、品格ある美しい国、日本をつくることができるよう教育再生を推し進める」(談話)―首相の本意と信念あり。
初めての所信表明演説で「新しい国づくり」を訴え、「戦後レジーム(体制)」の脱却を目指したが、改正法の理念の具体化や教育再生の成果も出せずに横死されたことは残念で痛恨の極みであつた。
(正仮名遣、原文のまま)
渡辺利夫 拓殖大学顧問
平成14年9月17日、安倍晋三氏は小泉純一郎首相の訪朝に官房副長官として随行。この日、日朝平壌宣言が出され、それから1ヶ月経った同年10月15日、蓮池薫氏など5人の拉致被害者の帰国がなった。帰国といっても、家族を北朝鮮に残しての2週間ほどの一時帰国である。政界やマスコミの主流は、5人を北朝鮮にひとまず返し、波風を立てずに日朝国交正常化の方向へと動き出すべきだ、というものであった。
しかし、一人、安倍晋三氏の判断は違った。被害者を北に戻すのか否か、これは日本の国家意志のいかんを徹底的に問われるテーマである。被害者5人それぞれの意思としてではなく、「国家の意思として、彼らを戻さない」と決断。
この決断を小泉首相に伝え、首相の了承を得て政府の決定としたのである。日本政府の方針が北朝鮮に伝えられ、平成16年4月5日には、すでに帰国していた被害者の子供を含む8名の新たな帰国がなった。安倍氏には、じりじりと日を待つような1年半だったのであろう。
拉致問題の帳を開いたことこそが、その後、党、政府の要職のほとんどに就き、ついには総理大臣として憲政史上最長政権の記録を更新した政治家、安倍晋三氏を誕生させる重要な契機となった。安倍晋三氏の不退転の意志、不撓不屈の精神、それにもかかわらず人々に寄せる安倍氏の眼の優しさ、そうしてみずからを誇ることのないあの謙虚な立ち居振る舞い。安倍氏が稀代の権力者であったことは紛れもないが、ただ力だけであれほどの政治的成果を残し得たとは思われない。大いなる器量の中の経綸だったというべきか。